セミナー「墨壺のかたち」

「墨壺のかたち」

「墨壺のかたち」

墨壺〜スミツボ〜と言えば、大工さんが材木に線を引くための道具ですが、墨の入ったもっこり太っちょおたまの様な独特な形に、柄の所には糸車のついたもの。中には、精巧な彫り物が施されて黒々とした鈍い光沢の質感を主張しながら、倒かさないように注意を払われ大工さんの手元に鎮座している。そんな様子をどことなく想像します。
ところが実際、現場で黒い墨壺が置かれた様子を見たのはいつ頃までだったろうか?
今頃見る墨壺は形に名残こそあるが、赤や青色のプラスチック製ケースになったコンパクトなもの。さらにはホルダー付きになって腰のベルトにぶら下げている。

そんな「墨壺のかたち」の変遷について、竹中大工道具館のセミナーを拝聴してきました。

「墨壺のかたち」

「墨壺のかたち」

まず最初に、前文の間違い。墨壺に添えられる墨糸を使う時、墨を「打つ」と言います。墨を含ませた糸をピンと張り、糸の行方と長い材木を睨みながらパシッと墨を打つと、スッとした線が材木の表面に転写されます。なにやら神聖な儀式にも見える大工さんの基本作業です。
こうした基本作業自体は記録に残されるずっと前からもちろんあり、当初は糸でなく「墨縄」であったようです。細かな大工仕事に使われ始める前に、製材の際に丸太を角材に加工する工程に使われはじめたのが道具としてのスタートのよう。今の様な形の墨壺として、遺跡の出土品や記録に残るようになるのは7~8世紀ごろから。発祥はおそらく中国と思われますが、全く記録が無いそうで定かでありません。

世界各国それぞれに墨壺はあるのですが、セミナーでの話の様子では、中国を中心としたアジア圏の方がヨーロッパ圏やアメリカ圏よりも道具としての発展は進んだようです。欧米やアジア奥地などでは墨壺と糸巻が別々の分離型が多く、墨壺と糸巻がひとつになった一体型の分布状況を調べると大工技術の流れも見えてくるようです。
話が古く遡りますが、ピラミッドにも墨出しの跡が見られるそう。このころは、縄とオーカー(酸化鉄に粘土を混ぜた着色剤)が用いられていました。中国ではベンガラ(レッドオーカー)が着色剤として使われ始めました。ヨーロッパでは、チョーク。

そんな世界の墨壺の中でも、日本は独特の発展があったようです。装飾を施された墨壺や洗練された形の墨壺が他の地域で無いわけではありませんが、こだわりの墨壺は他に類を見ない発展がありました。墨壺を専門に作る職人が発生したのは、意外と新しい時代。明治中頃に東京からスタートしたようです(東京墨壺職)。その墨壺職人が新潟三条に移り住んだ明治後期から、雪に埋もれる冬季の屋内作業として新潟の一大産業に発展(三条墨壺職)。
壺豊、成孝、一文字正兼と言った名人と呼ばれる人も現れます。各名人の作風は、精緻な彫刻であったり、端正な姿であったり、それぞれの特徴がありました。ついには実用を超えた巨大墨壺まで作られました。また東京・新潟以外の地域でのそれぞれの発展や、左官業や造船業など職種に合わせたバリエーションも生まれました。コレクターも現れます。
戦後復興の木造建築の大量生産に伴って大きく発展をした墨壺産業でしたが、昭和40年代から、プラスチック製品(特にポリエチレン製)の登場により一気に衰退へと転じます。そして、現代に至っては、腰にもぶら下げられるコンパクト且つ高機能な工業製品へと発展しました。

セミナー会場には高齢の大工さんらしい受講者も多く見られますが、おそらくオマケ映像で流された現在売られている墨壺製品の紹介ビデオに、一番会場が湧いたことが何より印象的でした。コレクションとしてはともかく、道具と見れば利便性が追求された進化に違いありません。
一方発展の時代、道具としては高度な技術が要求されませんが、大工仕事の基本にもなる墨付けの道具に凝ってしまうのは、華やかしき時代では大工さんの粋の現れのひとつであったに違いなく、大工仕事に対する誇りの現れだったのでは?とも思えるのです。

会場に用意された幾つかの墨壺は格好良く、個人的にもコレクションしたくなります。粋な墨壺を抱えながら現場に入る大工さんの姿を見ることはもう恐らく無いのだと思うと、少しばかり寂しい気もしました。

 

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