セミナー「庖丁の守りと研ぎ方」

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昨日は恒例の竹中大工道具館のセミナーへ。「庖丁の守りと研ぎ方」というタイトルで、まさしく包丁のお手入れと研ぎ方を教わった。講師の庖丁コーディネーター・廣瀬康二さんは、大学でも講義をされたりメディアでも紹介される「庖丁を通して食の愉しさを伝える」庖丁調整士さんだそうです。「守り」は「もり」と呼ぶそうで、「庖丁」という字も実は初めて知りました。

お寿司屋さんや料理屋さんのカウンター越し、レストランのオープンキッチンでも、庖丁さばきの良い板前さんやコックさんの姿を見ると、目の前にまだ無くても今にも美味しそうな料理が並びそうな気がしてきます。無理無駄が無く、信念をも感じさせる人の動きというのは見ていて気持ちの良いものですが、廣瀬さんが庖丁を研ぐ仕草もまさしくそんな感じです。セミナーに来てうまい飯を食わせてもらえるような気さえしてきました。

内容はごく身近な庖丁の手入れですが、砥石の使い方など結構知らないことが多いことが分かりました。まず目の粗さで、荒砥石、中砥石、仕上砥石とあることさえ、考えれば当たり前ですがあまり意識していませんでした。ヨメさんに任せっぱなしってことがよ〜く分かります。

  1. 研いでいる時に出てくる泥(砥石の粉が混じった水)を洗い流さないようにする。これは、一般的な中砥石で研ぐ時の基本。
  2. 庖丁のサイズにもよりますが、先から手元までを三等分に考え、全体にまんべんなく研ぐ。
  3. 鋼の庖丁は15度。ステンレスなら30度。砥石との角度の目安。
  4. 添える手に力を入れず、肘で動かすように1箇所10回ぐらいずつ。
  5. 研いだ刃の裏面にカエリ(刃先のまくれ)があれば、基本的に終わり。
  6. 仕上げは泥を洗い流しながら、軽く5回ぐらい。(ステンレス刃は刃先が弱いので仕上げはしない。)

ごく一部ですが素人的に出来るお話から、庖丁それぞれには役割をもった形があるので整えてあげる。蕎麦切り庖丁は店の方も手を出さないほうが良い。と、玄人的なお話まで非常に分かりやすく話をされる様子もどことなく板前さんっぽいです。

実演では予め庖丁をお預けされていた参加者の庖丁を診て、この鋼の庖丁は以前に火にかけられたことがありませんか?焼きが戻っていますよ。この庖丁だと例えばネギを切ると、切れきらずに繋がってしまうでしょう。まず庖丁の診断。
鋼の庖丁は火に掛けてはいけないのだそうです。(暖めたいときはお湯につけるまで。)ついつい研ぎやすいところばかり丁寧に研ぎすぎて、庖丁本来の形が変わってしまっている。など、思い起こせばやってしまったことありますよね。

工事現場だと大工さんがお昼休みや合間に鑿の刃を研いる様子が思い起こせます。なにはともあれ、道具を大事にしなければ素材も大事に出来ないのですね。
身の回りに道具がたくさんありますが、ぞんざいな扱いばかりしている身には、愉しくもとても耳の痛いお話でした。

食道具「 竹上」庖丁コーディネータ 廣瀬康二

セミナー 鉋鍛冶「神田規久夫」

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「鉋-かんな-鍛冶「も作」銘・神田規久夫の記録

午前中に服部商店さんの工場を離れ、竹中大工道具館「心と技のセミナー」に向かいました。鉋鍛冶の石社修一氏の講演で「現代鍛冶技法の保存調査報告その1「鉋鍛冶「も作」銘・神田規久夫の記録」というタイトルです。それは、東京足立区の住宅地の中で、昭和8年生れの鉋鍛冶・神田規久夫さんが今も現役で仕事をされており、その仕事ぶりを同業の鉋鍛冶・石社さんがビデオにおさめた記録の公開と講演になります。
江戸大工からの背景もあり、もともと東京も大工道具(ノミ、カンナなど)の製造も盛んだったそうです。ですが今は、大都会に変貌する流れの中でそうした産業は土地の確保ができる地方に移り、個人で続けれるている方はほんのひと握り残っているだけ。道路から半間通路の奥、まさしく密集地のなかで昔ながらにトンテンカンとされる鍛冶屋さんがあるのです。生産を重視するメーカーだと、工作機械の設置や材料の入手や保管を考えるだけで、とても東京の街中では出来なくなる事は想像に難しくありません。
その対極、昔ながらの手仕事にこだわった数少ない職人さんの工房は、石社さんの言葉を借りればガラパゴス的に残ることが出来たと言う事です。神田さんは、ただひたすらに鉋の刃だけを作っておられるわけです。見せて頂いた映像も炉の火加減を見る為に特別な照明を当てる事もなく、実際に商品として作られる過程を2〜3週間掛けて撮影されたもの。作為的なプロモーションは全くなしなので、とてもリアルな感じがします。
おそらくは陽の目を見る事のなかった鍛冶職人の神田さんの刃は、たまたま鉋使いで有名な大工・阿保昭則さんの手に渡ることになり、見初めた阿保さんが神田さんを探し当てたところから、こうした記録になったようです。
メディアではこうした職人さんが取り上げられる事も少なくありません、ですが、神田さんのような職人さんは居なくなる事が必至かもしれません。話の始め、刀鍛冶は憧れもあって飛び込む若者もいるが、人目をひく事がない鉋鍛冶や鑿鍛冶は跡を継ぐ人がまず居ないと言われていました。先の大工・阿保さんは神田さんの鉋で3ミクロンという脅威的な鉋屑を削られます。鉋だけでなく、手仕事を支えるこうした本物の道具と技は、技術技術と声高にしていてももうすぐ無くなるのかもしれません。

より良い材を揃える服部さん、材を生かすために道具をつくる神田さん、機械化ではまねの出来ない何かがそれぞれにあり、それらが建設、建築の仕事、技術、思想を高めるひとつの要素になっている事に違いありません。でもいつか、それらは忘れ去られそうな何かになっている。ひとつでも多く、そうした何かを残せる仕事に関われたらと日ごとに思います。

セミナー「お茶室の壁の作り方」

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ラス下地・・・本文の内容とは違いますが。。。

 

今日のお昼、竹中大工道具館の「技と心」セミナーに行ってきました。
「お茶室の壁の作り方」と題された学芸員の方の講座なので、歴史や様式的な話が中心だろうと勝手に思いながらいたのですが、話が始まってみるとむしろ仕様や技巧のずいぶん実践的かつ専門的な話を聞く事が出来ました。先の数寄屋展で協力もされている京都の左官屋さんから聞かれた話を元に学芸員さんが解釈を交え、土壁(特に茶室の壁)の技術・技法や、左官と言う仕事の奥深さの一端を垣間見る事が出来たように思います。

左官と言えばすぐに思い出すのは鏝(コテ)ですが、その種類は1000を越すとも言われているそうです。曲がりの角や壁の出角に平たいコテでなく、折り曲がったコテや現場に合わせた半円のコテを用意されるくらいの事は知っていましたが、一般的に平にだけ思っていたコテには、ゆるりと膨らんだり凹んだりしているコテがある事は認識していませんでした。下塗り、中塗り、上塗りと言った工程またその工程内でもコテは使い分けれられているのです。接する面の違いでべた〜と塗るためのコテ、繊細に面の凹凸を感じ取りながら細筆を引くように使うコテ。そうです、コテは絵筆と全く変わらない。

話は変わりますが、現存する茶室は数多くあります。僕でも多少は見学に行きます。その折、薄汚れたというべきか味があると言うべきかは別として、古びた壁を見ながらう〜んイイものを観た。とたびたび感慨に浸っていたのですが、建設当初の土壁と言うのは実はほぼ全くないのだそうです。土壁の持ちというのは、つなぎの糊が入ったもので6〜20年、入っていないもので50年ほどとの話。しかも間が開くものだから師弟間での技術の伝承が難しく、復元はその都度改めて考えながらされているのがほとんどだとか。まあ永久って事はないだろうとは思っていましたが、感動してきた壁のほとんどがリメイク?だったとはつゆ知らず。ちょっとしたショックです。

そんな話を皮切りに、一般的な土壁と茶室壁の下地の違い、材料の気の使い方、土の種類などなど、ひと言で書くのはなかなか難しいお話をたくさん聞く事ができました。中でも面白かったのは、節がある柱への墨付けは墨壷に糸よりもテープが便利だとか。土を寝かせても思われていたほど強度が上がる訳ではないのだとか(施工性は格段に上がります)。

茶室と言う意匠(美)の探求こそが、左官に限らず職人の技術や材料や道具の発展を牽引してきたのだな〜。いちいち妥協していては、そうした事はなし得ないのでしょうね。建築道はまだまだ遠く果てしないです。

展覧会「数寄屋大工」

しばらく前の事になりますが、竹中大工道具館で開催されていた「数寄屋大工」展と同時開催されていたセミナーに行きました。
展示されていた実物大の茶室構造模型はさすがに迫力があり、外から観るだけでなく内部にも入れるので、ふ〜むふむと顎をさすりながら小さな空間を幾度も往復。規格にはまった材木を使い、金物だらけにしている普段の設計とはまるっきり違います。あ〜なんて軽やかなんだろう。目的が違うと言ってしまえばそれまでですが、こんなにも自由に考えられるのか〜と、ため息。ついつい枠にハマってしまって固くなった頭をほぐす必要があるような気さえしてきます。
もちろんひとつひとつの材料も違えば、隅々に至る手仕事の掛かり方も違います。それをそのまま自分の仕事に置き換える事はままならぬことですが、そこにあるエッセンスみたいなものを少しでも加える事ができれば。

先日に書いた料理家の辰巳芳子さんしかり、今回書いた数寄屋建築を支えた名匠しかり。どちらも自分の立ち位置をしっかり見つめて本物を作られています。決して小手先ではない。違う世界ではあっても、根底にあるものは変わりません。

ちょっと仕事が落ち着き間が空いて、ボヤっとしたところに喝を入れられました。何をするでもよいのだけども、常に自分の立ち位置を見つめて仕事をしたいと感じているところです。

セミナー「規矩術入門」

昨日、竹中大工道具館のセミナーで「基礎から学ぶ規矩術 入門編」となる講座を聴きに行きました。規矩術、広義では建築全体に及んだ設計術のような話ですが、狭義で行けば曲尺(サシガネ)を使った墨付け(加工上の線引き)の技術を言います。立体では3次元に捻った形状も、材料(主に木材)を切ったり削ったり加工する時には2次元にしないとどうすれば良いかが分かりません。ただ単純に上から見たとこ、横から見たとこと言う訳にもいかず、斜め向こうに上がって行くラインを再現するにはその材木上ではどう切り込めば良いのか?になります。分かりやすく?言えば幾何学の世界。数学の授業が眠たくなる人はつらいかも。
ところで、曲尺とは90度に曲がりのある定規です。大工さんがいつも片手に持っているイメージが出来るあの定規です。ウラオモテに寸法が刻まれていますが、ウラの一面には、ルート寸法が刻まれているのだそう。も、逃げたくなる人いませんか。
講義後半は、 曲尺の使い方と幾何学上の関連を解きながら話が進むのですが、ココがこうなるからこうなって、ソレがそうなる訳です。分かりますか?と先生の問いに、会場にいる皆さん(僕も含めて)、ビミュうなニガ笑いに包まれます。久しぶりに落ちこぼれ学生の気分を味わった感じです。放課後の補習が無いので助かりました。
まずは入門編と題されたこの講義、次回応用編があれば間違いなく行くでしょう。ただし、さらにチンプンカンプンなことになりそうです。

規矩術 – Wikipedia

セミナー「阿保昭則 – 大工が教える本当の家づくり」

今日午前中は竹中大工道具館「技と心のセミナー」に行き、 日本一のカンナ削り名人の大工・阿保昭則さんのお話を聞きにいきました。表題の通り、「大工が教える本当の家づくり」。千葉で耕木杜という工務店をされている人気の大工さんと言って良いでしょうか。と書きながらも、実はあまり知らずにいたので昨晩にネットで予習し、初めて知ったところです。

一時間半の講演でいろいろと考えさせられました。
と言え、特別な話が聞けた訳ではありません。内容だけを羅列してしまえば、ごくごく普通に当たり前な話だと思います。物件への取り組みの方法や姿勢、施主さんとの付き合い、健康に気遣う建物を目指し、喜びを分かち合う。普通(と言ってはいけないかも知れませんが)の大工さんと一線を画すのは、単に職人の域を超え、建築家や設計士以上に現在あるべき住い・建物のあり方を探求する心と思います。

伝承や決まり事、現場で疑いもなくそういうものだと言ってしまう事ひとつひとつに疑問を投げかけ、自分のものになるまで諦めない。それを淡々とやってきたことで自信に溢れたひと言ひと言であったように思えます。その自信ある言葉に、実は打ちのめされた感じです。

自分が仕事をしていく中で大切に考えようとする日々思っている内容と、阿保さんの話に大きな差異はありません。しかしあきらかに違うのは、それをやり遂げているか否かです。

セミナー「初期木割書の世界」

先週の土曜日に久しぶり、竹中大工道具館の技と心セミナーに行ってきました。「初期木割書の世界〜中世の建築設計技術を探る〜」と題された道具館の学芸員さんによる講演です。木割書とはなんぞ?分かりやすく言ってしまえば、建築技術書です。とは言うものの写真の通り、古文書です。漢字ばかりという訳でなくひらがなやカタカナのものもあります。文字が無い時代、道具と技術は五官を駆使して伝承されてきましたが、言語が発生発達し文字が誕生し、当然ながら技術の伝達はそれまでの口伝や見よう見まねから、媒体での伝達に変わっていった訳です。

世界には未だ五官だけの伝承が続くところもあるそうですが、それは技術を盗まれない為だそうです。そう考えると、日本はやっぱり平和です。どうやらこうした木割書は秘伝書から始まり公刊書に移り変わっていったようですが、ことの始まりは技の自慢にあったようです。俺んちにはすげぇ秘伝書があるからよ〜お前らには負けね。なんてやってたんでしょうか。やはり平和。
木割書の内容はどちらか言えば寸法体系(モジュール)の構築が主だったようです。 柱や梁、垂木のサイズを一定比率に現すことで、誰がやってもある程度に整った形を作り出せる(もちろんそれなりの技術あっての話でしょうが)。そうした俺んち流を伝えられるように、もしくは忘れないようにするのが一番の目的だったようです。中には観念的哲学的な人もいて、大工とは何ぞやと深みにはまっていくものもあったそう。なににせよ、世界に類を見ないほどに日本には建築書が多いのだそう。平和だけでなく、日本という国はそうした技術を育む土壌が自然にも思想にも羨ましい程にそろっていたのかも知れません。いや平和どころか、乱世を生きる術だったのかもしれません。

秘伝書がやがて流出し公刊書に移り変わっていくに従い、文書の中身はだんだん誰にでも分かるような内容になっていきました。小難しいことばかり書いてあってはベストセラーになれないのです。その技術の拡散の陰で秘伝書はなくなっていく。もしくはマニアな世界になっていく。結局今と変わりません。伝統を残す難しさは、今に始まったものではない気がします。

こうした木割書は当時の棟梁やその弟子によって書き連ねられ、改訂が重ねられたりもする。中にはアチコチの木割書を書き写して並べただけのものもあるそうです。棟梁の発生も頭と実力が秀で人心を掴み、乱世を生き残る為に段取り上手なプロデューサーが必要だったのです。話を聞いて想像している内、はじめ思い描いた建築家と言うよりもゼネコンの社長に近い存在だったのでは?と思えてきました。

それよりどなたか、今の乱世を生き残る術の木割書はどこかにないものでしょうか。

セミナー「ヨーロッパ大工の技」

先週末、竹中大工道具館で催された特別セミナー「ヨーロッパ大工の技」を聴きに行きました。講師はドイツの木工職人ヘンリヒセンさんという方で、日本での修復工事を行った経験もあるだけあって、流暢な日本語で冗談を交えた講義はとても楽しいものでした。講義はほとんどヨーロッパ大工の技の実演で、ドイツの土台の継手模型を製作しながら進みました。実演の合間に大工道具箱の伝統、墨付け方法、鑿や鋸を使った加工についての解説を、日本の道具との違いを加えながら説明していただけ、材料の違いなどもあって道具の発達の違いになっていった過程が少し実感できた気がします。

日本は桧・杉・松など針葉樹が材木の中心ですが、ドイツでは樫・楢など広葉樹が構造材・造作材の中心として使われてきたそうです。そして日本の桧のように扱われるのがこの樫だそうです。樫と言えば水や虫に強い材料ですが、反ったり、縮んだり、木がまっすぐ育たないので長ものの材料が取れないなど扱いにくく、また字のごとく硬い木の代表でもあります。これら硬い材料に立ち向かうには、日本のような繊細な道具では歯が立たないという訳です。ですから道具としては日本よりも単純で堅牢さが求められました。ヘンリヒセンさんは先進国なのに大工道具はとても原始的。と言われていましたが、それが理にかなった結果なのです。その逆に扱いやすい材料があったからこそ、日本は大工技術は高度に熟して行ったと思われます。

また、日本の様に身体を使って木を押えながら作業をすることも少ないそうです。向きを変える度にもしっかり作業台に固定しつつ,作業を進めます。当たり前に思っていた足で押えつつ作業をする姿は、実は日本独特なものだそうです。差し金のような物差しも同じ様にありますが穴がいくつか開いてあり、そこに鉛筆を差込みケビキ(線引き)をしたりもできます。ひとつひとつは合理的な感じがします。しかし日本のような削ぎ落されて進化した道具と違っており装飾も多いので、怒られそうですがどことなくプロっぽく無かったり感じてしまいました。

それぞれ良し悪しはあるでしょうが、やはり日本の道具は優秀な気がします。三木や小野の刃物メーカーさんはドイツでもとてもポピュラーだそうです。ヘンリヒセンさんがドイツの道具を本国から送ってもらうと、日本のノコギリが入っていましたよと笑って紹介されました。

セミナー「古代東アジアの木塔」

ホント倒れそうなくらい暑い日が続きますね。駅前でイチローも水浴びさせてもらって気持ち良さそう。

久しぶりに竹中大工道具館のセミナーを聴きに行きました。日本や韓国・朝鮮、中国の塔のお話。演台の箱崎先生が、この話は「話すのが難しい」と最初に言われただけあって、何をどう書けばよく分かりませんが、とりあえず。

塔と言えば法隆寺の五重塔。しかし、その設計法や施工法の技術はその当時どのような伝来であったか、まだまだ謎の多くが解明されていない様です。日本には他に比べると現存する木の塔は多く、遺跡も数知れずあるそうです。その遺跡の中には、法隆寺の塔が6〜9つぐらい入りそうな大きなものもあるのだそう。そんな塔が今も残っていたら、世界遺産だらけになるに違いありません。それに比べると、中国朝鮮の木塔は片手程しか無く、現存する塔はどちらか言えば石やレンガのもの組石造だそう。もしくはその混構造になるようです。また塔と言うよりも堂と捉えられるような建物が多く、日本の状況は世界的にも類を見ない木塔乱立国と言ってよいのかも。

ただ特に朝鮮の木塔が現存しない理由のひとつとして、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に多くが焼き尽くしたのだとか。なんちゅう事をするのでしょう。もし現代でそんなことしたら、日本は間違いなく四面楚歌状態にです。丁度この間観たNHKの大河ドラマ「江」がそんな秀吉をやってたところ、岸谷五朗の顔を思い出してしまいました。北政所と共に止めさせるべきでした。であれば、今日の話はもっと面白くなったかも。

スライドで紹介される中、やはり日本の職人の技はスゴい気がします。それは美意識なのか、どう考えても他に比べると複雑な構造を求めていたようにも思えます。ただ、何故だろうと正直思うのは、現存する最古の塔・法隆寺が一番美しいバランスでスマートに建っているように思えてなりません。聖徳太子の美意識は並々ならぬものだったのか?それだけでなく法隆寺の伽藍のバランスも、現代の美意識に一番近い気がするのです。その点だけ捉えて自分なりに考えれば、もっと後期なものであっても良さそうなもの。美意識の変遷がどのようにあったのか。そう言えばそうした時代のそうした建物にまつわる話はあまり聴きません。主観的になりそうで、難しいテーマだから?現存の資料が少なすぎるのでしょうか。そんな研究をされている方の話があれば、是非に聴いてみたい気がします。