セミナー「江戸時代の大工さん」- 大工頭中井家と大工組 –

江戸時代の作事願書
昔の確認申請書。墨の印鑑がなにやら恰好良い。

 大阪くらしの今昔館館長・谷直樹先生の講座を聴きに行きました。

 江戸時代に活躍する中井家という大工頭の系譜や実績を1時間半、憶える間がないほど次々と紹介された濃密な講義でした。スライドも盛り沢山、興味深い話もいっぱい聴けたのですが、情報量の多さにナニがナンだったか既に分からなくなってます。(笑)
 なんとか思い出せるところをいくつか。。。

 まず中井大和守(やまとのかみ)初代・正清という人物。徳川家康に抱えられ二条城・江戸城・名古屋城など名だたるお城を次々と建てた大工棟梁の親分です。そして、十万石大名と肩を並べる従四位下と言う役職を授かっていた事は、大工という職業人では前代未聞。
 時代も時代、城郭を建てるにはスピードと技術が必要、ひと声掛ければ全国のスゴ腕大工を集められる、今で言えば大工協会会長?です。話によれば、急を要した名古屋城の天守閣は、集めた大工で3ヶ月の突貫工事で建てたのだとか。現代ではそこまで技術ある大工さんが揃わないので、1年や2年間違いなく掛かるそうです。もし建てられなかったら打ち首になったのかもしれませんが、想像するだけでも驚愕な話です。

 その後も繁栄続く中井家は、お城だけでなく寺社仏閣・御殿も次々仕事をこなします。数もあるだけ技術も上がりゼネコンさながら、日本の文化遺産の多くは中井家無しにあり得ません。またそうした仕事の資料が今の中井家に数多く残され、それらを読み解くことで歴史も辿れます。いわゆる施工図が残っているので、それを頼りに史跡を探ることも度々。そこから新たな歴史の解釈もあり得る訳です。
 建築士に身近なところでは、江戸時代の作事願書(今で言う確認申請書)の実物を拝見しました。当時の贅沢禁止令から庶民は必要以上に大きな建物を建てさせない規制がありましたが、そうした規制から逃れたどうみてもサイズオーバーな違反建築も資料から推測できるとか。

 他に面白いところで、渡来した象を将軍さんが見物するときの設営図とか。(余談では、その後の像のエサ代が偉いことになっていたそうです。)。。。などなど、谷先生は話が尽きない様子でした。

 講義最後にオマケ話もいただきました。谷先生はNHKドラマなどの風俗考証などもされているそうです。今、放送中の「スカーレット」も。
 ドラマに現れる街の風景には、突き当りのT字路セットが多く観られる筈。普通の十字路交差点では、ずっと先までセットを作るのが大変だからです。江戸の風景には本来T字路は少ないはずなのだけど、もろもろ諸事情から。。。
 ほ~、なるほどなるほど。

展覧会・講演会「木組」

竹中大工道具館「木組 分解してみました」

 竹中大工道具館での展覧会「木組 分解してみました」を観て、当日開催された講演会「木組とはなにか」を聴いてきました。

 会場にあった木組の展示は、今でも一般的な木造建築に使われる継手・仕口はもちろんですが、これまで見たことがない面白いものも展示されていました。また、ギタードと呼ばれるフランスに伝わる曲面3次元な木組みや、伝統工芸に見られる指物、組子などがあり、大きなもの小さなものが並列に展示されているのが印象的でした。
 神戸ではあと半月程ですが、お近くの人はぜひ足を運ばれてはいかがでしょう。個人的に、今回のカタログは小粋で内容も備わりお買い得な感じがしています。
 講演会の時間が迫り、観賞そこそこに会場を離れてしまったのは残念。

 お昼からの講演会は、大工の阿保昭則氏、指物の須田賢司氏、組子の横田栄一氏の三者と、大阪くらしの今昔館館長・谷直樹氏の司会進行で進められました。まずはそれぞれお仕事の話、その後はインタビュー的な構成です。
 木組みをテーマにどんな話しになるのか。それぞれのお話はとても興味深いものでしたが噛みあうような噛みあわないような不思議な印象、残念ながら木組みのようには行きませんでしが味わい深く、2時間を超える講演は足らないぐらいに思えました。

 講演最後の辺り、図面を重視されますか? 現代技術・伝統のどちらを重んじますか? 谷氏からの問いかけに対し、
 大工・阿保氏は、建築は全体の納まりがあるので図面があくまで基本、伝承には間違いも多いので経験上伝統はあまり重視しない。
 指物・須田氏は図面は当たりぐらいにしかなく、木工の歴史はまだ浅いのですが伝統を重視しています。
 組子・横田氏に至っては図面はほとんどありません。どちらか言えば伝統を大事にしたい。
 と言ったくだりは、それぞれにお仕事の内容にもよるのでしょうが、基本的な考え方の違いが見える面白いところでした。

 展覧会を思い返しそれぞれの展示品を図面化するなど、実のところ、とてつもなく途方もない事に思えてきます。これらの物・技が見よう見まねだけで伝わるものとも思えず、人はそこに一体なにを求めているのか、必ずしも必要だけで生まれた訳ではない不思議な世界がそこにはあります。

竹中大工道具館「木組 分解してみました」

開館35周年記念巡回展「木組 分解してみました」https://www.dougukan.jp/kigumi/
阿保昭則氏(耕木社)http://www.koubokusha.co.jp
須田賢司氏(木工藝)https://www.mokkougei.com
横田栄一氏(栄建具工芸)/NHK長野「わがまちの手仕事」https://www.nhk.or.jp/nagano/teshigoto/100311.html
 /しげの家から行く長野の旅 http://www.shigenoya.co.jp/stay/yokota/

見学会:聴竹居|藤井厚二

聴竹居

猛威を振るった台風21号のあと、聴竹居へ2回目の訪問。7年前に一度来ています。今回は竹中大工道具館のイベントの抽選に当たり嫁さんと再訪しました。7年前のブログを読み返すと、今回来て感じた事とと同じような感想を綴っていました。今回もまた特に下調べもせずの訪問ですが、同行のイベント参加者が少なめであったこともあり、案内の方の解説をゆっくり聞けたことは良かったです。

改めての印象第一は、聴竹居は見かけ以上に贅をつくした建築ということです。設計者・藤井厚二の自邸としてなんと5つ目の建築。気に入った宮大工さんと建築工事を進めたとの話。甚だ羨ましいかぎり。

建物としては、空間的立体的な繋がりよりも一面的でグラフィカルな表現を強く感じます。歩きながら空間を楽しむと言うよりも、ポイントポイントから見るビジュアルを強く意識されているのでしょうか、敢えて言い換えると平面的な印象がします。
藤井氏は当時のイギリスの建築家マッキントッシュに強く影響を受けたのでは無いかと解説を頂きました。時代は違いますが、絵画で言えばモンドリアンなど幾何的な構成表現に趣向があったのだと感じます。
氏の設計図に加え、やや神経質にも見える緻密に描き込んだスケッチブックを拝見すると、建物に受けた印象をさらに納得する気がしました。

藤井氏は環境工学が専門であったことで、聴竹居は光や風を上手に取り込んだ設計により画期的なパッシブ住宅として紹介されることも多いのですが、一方で贅沢な設備設計が為されています。当時としては珍しい電気冷蔵庫を海外から輸入して調理室に設置したり、照明器具も自身の意匠によりふんだんに製作されています。子供部屋の造り付け勉強机には、子供一人一人の場所にコンセントも用意してありました。調理室の一画に、随分な大きさの分電盤が設置されていました。
当時は電気を使いすぎると近隣に呆れられていたこともあったよう。そんなわけで省エネ住宅では無いですね。と解説いだだき、見学者一行の笑いも漏れました。

現代に見ると違った側面はありますが、和洋を問わず良いと思ったことを取り入れる藤井厚二氏の思想に支えられ完成した聴竹居は、今も保存を望まれる現代住宅の原形のひとつに違いありません。今なお学ぶべきことも多くあります。
今年6月に起きた大阪府北部地震によって、外壁に亀裂が入り、当時の窓ガラス一部が割れるなど被害を受けました。保存会の方々の手によって、修復の計画も進められているそうです。

セミナー「刃痕から大工道具の歴史を探る」

先日、昔の木造建造物の部材に殘る刃物の痕跡から当時使われた道具や年代を調査されている学芸員さんの話を、竹中大工道具館で開催のセミナーで拝聴しました。

斧 オノ、鑿 ノミ、鋸 ノコ、鉋 カンナ。木を切ったり削ったりする刃痕(ジンコン、ハアト)は、それぞれの発達具合や過程で殘る形が違うのは頷ける話。絵巻物などの古文書に殘る建築現場の様子も参考に、どんな姿勢でどんな風に使われたのかを想像するのは、ちょっと楽しそうです。
簡単に想像できるものもあれば、併用されて複合的に考えないと謎解けないものもあるでしょう。いくら考えても分からないものもあるようです。

学芸員さんは、お堂の屋根修復現場で携わった野地板の調査の際、時代を経て幾度か修理されている経緯を野地板に残る刃痕から読み取ることができたのが面白く、研究を始めたきっかけになったそうです。そうした刃痕を追いかけて修復現場、発掘現場に出向き、写真や摺本(乾式拓本)を整理し、まつわる文献を読み解いた最近の調査事例をいくつか紹介していただきました。お話は、建築道具を通しながら昔の人々の営みを夢想されているかのようでした。

一方、今の建築ではどんな痕が残るのだろうか?と考えてしまいます。

調査の話は、どうしても寺社仏閣のどちらか言えば立派な木造建物が主ですが、多少の差こそあれ当時の一般建築に使われていたものと大差ないように思われます。
しかし、現代の一般建物はとなると、機械化されたプレカットの痕?、電動工具の痕?、でしょうか。そもそも簡略化されていく工事に人の手の痕さえ残りません。そうして考え始めるとちょっと寂しいものがあります。

刃痕の話から逸れますが、熊本地震によって崩れた熊本城の石積み修復の話をテレビで観ました。修復前の調査によって、築城当初の古い石積み「武者返し」には被害が少なく、戦争などその後の修復工事を施した石積みの箇所がむしろ脆いことが分かったそうです。熊本城の「武者返し」は当時の地震対策を加藤清正が経験を積んで完成させた技術であったということが、とても興味深いものに思えます。

刃痕をさらに掘り下げれば、先人の知恵が思わぬところに隠されているようにさえ思えます。脈々と培われて来た技術が、経済性に追いやられず、現代の建築現場の道具や工法にしっかり取り入れられていくことを望みたいと思います。

また、熊本城の修復をする建設会社の技術はスゴイものと同時に感じます。現代建築の技術にはとてつもなくスゴイものも数多くあります。こうした技術がいずれ、先人の知恵のひとつとして残っていくのかもしれません。ただこうした技術は人肌から遠く離れた感覚があります。もっと身近に感じられる知恵の伝承も増えれば、住まいや暮らしを豊かに感じるようになれると思えます。

セミナー「墨壺のかたち」

「墨壺のかたち」
「墨壺のかたち」

墨壺〜スミツボ〜と言えば、大工さんが材木に線を引くための道具ですが、墨の入ったもっこり太っちょおたまの様な独特な形に、柄の所には糸車のついたもの。中には、精巧な彫り物が施されて黒々とした鈍い光沢の質感を主張しながら、倒かさないように注意を払われ大工さんの手元に鎮座している。そんな様子をどことなく想像します。
ところが実際、現場で黒い墨壺が置かれた様子を見たのはいつ頃までだったろうか?
今頃見る墨壺は形に名残こそあるが、赤や青色のプラスチック製ケースになったコンパクトなもの。さらにはホルダー付きになって腰のベルトにぶら下げている。

そんな「墨壺のかたち」の変遷について、竹中大工道具館のセミナーを拝聴してきました。

「墨壺のかたち」
「墨壺のかたち」

まず最初に、前文の間違い。墨壺に添えられる墨糸を使う時、墨を「打つ」と言います。墨を含ませた糸をピンと張り、糸の行方と長い材木を睨みながらパシッと墨を打つと、スッとした線が材木の表面に転写されます。なにやら神聖な儀式にも見える大工さんの基本作業です。
こうした基本作業自体は記録に残されるずっと前からもちろんあり、当初は糸でなく「墨縄」であったようです。細かな大工仕事に使われ始める前に、製材の際に丸太を角材に加工する工程に使われはじめたのが道具としてのスタートのよう。今の様な形の墨壺として、遺跡の出土品や記録に残るようになるのは7~8世紀ごろから。発祥はおそらく中国と思われますが、全く記録が無いそうで定かでありません。

世界各国それぞれに墨壺はあるのですが、セミナーでの話の様子では、中国を中心としたアジア圏の方がヨーロッパ圏やアメリカ圏よりも道具としての発展は進んだようです。欧米やアジア奥地などでは墨壺と糸巻が別々の分離型が多く、墨壺と糸巻がひとつになった一体型の分布状況を調べると大工技術の流れも見えてくるようです。
話が古く遡りますが、ピラミッドにも墨出しの跡が見られるそう。このころは、縄とオーカー(酸化鉄に粘土を混ぜた着色剤)が用いられていました。中国ではベンガラ(レッドオーカー)が着色剤として使われ始めました。ヨーロッパでは、チョーク。

そんな世界の墨壺の中でも、日本は独特の発展があったようです。装飾を施された墨壺や洗練された形の墨壺が他の地域で無いわけではありませんが、こだわりの墨壺は他に類を見ない発展がありました。墨壺を専門に作る職人が発生したのは、意外と新しい時代。明治中頃に東京からスタートしたようです(東京墨壺職)。その墨壺職人が新潟三条に移り住んだ明治後期から、雪に埋もれる冬季の屋内作業として新潟の一大産業に発展(三条墨壺職)。
壺豊、成孝、一文字正兼と言った名人と呼ばれる人も現れます。各名人の作風は、精緻な彫刻であったり、端正な姿であったり、それぞれの特徴がありました。ついには実用を超えた巨大墨壺まで作られました。また東京・新潟以外の地域でのそれぞれの発展や、左官業や造船業など職種に合わせたバリエーションも生まれました。コレクターも現れます。
戦後復興の木造建築の大量生産に伴って大きく発展をした墨壺産業でしたが、昭和40年代から、プラスチック製品(特にポリエチレン製)の登場により一気に衰退へと転じます。そして、現代に至っては、腰にもぶら下げられるコンパクト且つ高機能な工業製品へと発展しました。

セミナー会場には高齢の大工さんらしい受講者も多く見られますが、おそらくオマケ映像で流された現在売られている墨壺製品の紹介ビデオに、一番会場が湧いたことが何より印象的でした。コレクションとしてはともかく、道具と見れば利便性が追求された進化に違いありません。
一方発展の時代、道具としては高度な技術が要求されませんが、大工仕事の基本にもなる墨付けの道具に凝ってしまうのは、華やかしき時代では大工さんの粋の現れのひとつであったに違いなく、大工仕事に対する誇りの現れだったのでは?とも思えるのです。

会場に用意された幾つかの墨壺は格好良く、個人的にもコレクションしたくなります。粋な墨壺を抱えながら現場に入る大工さんの姿を見ることはもう恐らく無いのだと思うと、少しばかり寂しい気もしました。

 

セミナー「奥会津地方の建築儀礼と番匠巻物」

祈りのかたち – 知られざる建築儀式の世界 –(竹中大工道具館企画展2017.4.15~5.28)

近頃は、建築儀礼(地鎮祭や上棟式)が執り行われる様子に出くわすことが少なくなりました。まったく無い訳ではありませんが、自分が関わる物件でも必ず行われるものでなくなってしまったことはやはり寂しい気がします。

今日は久しぶりに「技と心セミナー」へ行きました。お茶の水女子大学教授・宮内貴久先生による「奥会津地方の建築儀礼と番匠巻物」。全国でも珍しい伝承的に行われる福島県奥会津地方での上棟式の様子と、そこにまつわる大工(この地方では「番匠」と呼ばれる)の師弟間に伝わる巻物伝授のお話でした。

この地方では、大工修行が終わり一人前にになると親方から弟子へ巻物が伝授されるのだそうです。巻物は一人前になった証のようなもので、例えが悪いですが、もし親方が事故でなくなり巻物伝授が受けられないとなると弟子たちは大騒ぎになるのだとか。是が非でも手に入れないと、自分たちの価値を失うかもしれない。そんな勢いのようです。
では、その大事な巻物に一体何が書かれているのか? 簡単に言ってしまうと大工の心得や技術書のようです。その中には儀礼のマニュアルもあります。なるほど大工さんにとってはバイブルなのかと思いきや、実はほとんど読まれることはなく、むしろ普段何もない時に決して開いてはならないものだとか。まるで呪物のような扱いで、不思議な伝承です。
また巻物が唯一使われる儀礼は上棟式だそうですが、ここでもようやく巻物を開きはするものの一文一句詠む訳でもないのだとか。。。ますます不思議。それでも普段、巻物は袱紗に包まれ桐箱に入れられ神棚に祀られているそう。上棟式となれば、どんなに現場が離れていようと棟梁自らが巻物を取りに帰るのだそうです。

宮内先生は、そうした巻物を大工さんのお宅へ一軒一軒廻り見せていただき、そのルーツを解き明かそうとされています。また他の地方に同じような伝承はないのか史料調査されています。

祈りのかたち – 知られざる建築儀式の世界 –(竹中大工道具館企画展2017.4.15~5.28)

そんな巻物の話の最後、驚きになったのは「まじないうた」のお話。
いくつかある歌の中でも、安寧な生活がいつまでも続くことを望む歌として「君が代」が普段から口ずさまれていた?そうです。スライドに映る巻物の写真にきっちり歌詞が書かれているのが読み取れます。「君が代」は平安時代の和歌。お祝いの歌、建物に思い馳せる歌として謳い継がれてきたという事は思いもよりませんでした。

講演の始めにありましたが、建築とは野生の空間に人が住めるように秩序立てること。家を建てるという事は子孫繁栄の基礎となること。そこに儀礼が生まれてきたのだそうです。なので、地鎮祭の後に板囲をし夫婦がそこで一夜を過ごし、自分たちの住む土地を獣に汚されないように守るということもされていたそうです。

施主さんの思いが宿る。そんな地鎮祭や上棟式をずっと続けて欲しいものです。

 


祈りのかたち – 知られざる建築儀式の世界 –(竹中大工道具館企画展2017.4.15~5.28)

対談「日本の伝統建築の 真|行|草 」

大工館への道すがら

昨日、竹中大工道具館の講演会に行ってきまた。「日本の伝統建築の 真|行|草」数奇屋建築の研究と設計で有名な中村昌生先生と数奇屋建築の施工で有名な中村外二工務店・棟梁の升田志郎氏の対談です。
いつもと違って沢山の方が来られるだろうなと思いつつ、会場に15分前に着きましたが時遅し。すでに溢れんばかりの人だかりで、三時間の講演をずっと立ち見で拝見するはめになってしまいました。

普段、数奇屋建築を見学に行っても、なんとまあ手間の掛かった仕事だろうか。一体いかほどの時間が掛かるのだろうか。はては、こりゃ〜いくらあっても出来んとまで考え及ぶのですが、実物を目の前に大胆かつ細部に至り精緻な仕舞を見ても、その仕事の実際や過程、大工を始めとする職人さんの知恵や技術を自分の中に置き換えるには想像しがたいものがあります。「日本の建築は?」と聞かれたら、多くの人は数奇屋もイメージすると思うのですが、同じ建築の中にあっても自分が普段関わる仕事とは大きくかけ離れた次元のものに見えてしまいます。できあがった建物だけでなく、そのできるまでの過程を含めて、全てが創作の世界にあるよう思えるのです。
そんな創作の世界の一端をお二人の対談の中から、少し身近になったように感じるのは甚だ勘違いかもしれませんが、お許しください。

日本の伝統建築の 真|行|草

和建築や数奇屋の世界は建築に関わる人なら多かれ少なかれ気になるものです。これまで竹中大工館のセミナーに幾度も来て、初めて建築関連の友人数人に会いました。また、200人定員だったところ300人になっているのでは?と思える盛況ぶりです。それだけ関心の高さに圧倒されます。踏み入れることのなかった世界に、思い憧れる人も多いのでしょう。僕自身もその一人です。
20年振りでないかと思う会場で再会した友人の一人は、四十を過ぎて踏み入れ始めたと少し話をしてくれました。儲からんけど楽しいよと笑いながら話をしていましたが、なかなかできることでない気がします。陰ながら応援したいと思います。

たゆまなく流れる何かを感じる。 そんな講演会でした。

見学会「三木の鍛治場を巡る」

刻印(常三郎)

先日、竹中大工道具館主催の見学会「三木の鍛冶場を巡る」に参加してきました。限定20名とあって、まず無理だろうと思ってスッカリ忘れていたところ、なんと当選。意気揚々と貴重な社会見学に行ってきたところです。
訪問先は三件。鉋(かんな)常三郎、鋸(のこ)カネジュン、鑿(のみ)錦清水。基本の大工道具・三品の刃物の製作風景を見学させていただきました。

まず、鉋(かんな)常三郎。
こちらでは、大きな工場で製造をされています。土曜日だったこともあって職人さんはお休み、残念ながら製作風景を直に見る事は出来ませんでしたが、社長の魚住昭男さんと入社7年目の若い職人さんに、時折実演を交えながら工場内を丁寧に案内して頂きました。いちいち機械が格好良いのですが、技術だけでなく材料研究の熱心さも品質を支えている様子が社長さんの話から聞き取れます。道具の事は素人ですが、ひとつ「鉄」と言ってもイロイロあるわけです。刃物に向く良質な鉄は少なくなっているのだとか、向かないと思われた新しい鉄鋼材料をどうすれば使えるようにできるのだとか。。。
実はこの後もそうですが、マニア過ぎて実は全然ついて行けてません。(泣)

次に、鋸(のこ)カネジュン。
日本で最初の工業団地と言う三木金属工業センターの一角に、カネジュンさんはあります。伝統工芸士(ほぼ同年の若い方です)であり社長の光川順太郎さんに駆け足で実演を見せて頂きました。使いやすいノコギリ、切れ味の良いノコギリとは?よくよく見てみれば、鋸は他の大工道具に比べると非常に複雑な形をしています。素人目にはギザギザな薄板なだけですが、まず驚いたのは、単に薄っぺらい板ではなかったことです。引きのよい感触にするには実は中程に薄くなっているのだそう。これだけではありませんが、そうする事で切るにつれ木に挟まれていく刃が動き良いようにしてあります。また、ギザギザの刃は右左に振れている事は知っている方も多いと思いますが、実は出来るだけ振れないようにした方が鋭利な切れ味になって行くことです。考えてみればナルホドですが、実は単純な話ではありません。コンマ零点何ミリが使い勝手を左右する世界なのでした。
鋸は複雑な工程の為に、道具製造のなかでは機械化が早く進んでいるのだそうですが、日本全国にある鋸生産工程の機械の原点は実は此処にあるのです。

最後に、鑿(のみ)錦清水。
先の二つの訪問先とは打って変わって、まさしく鍛冶工房です。主の錦清水(にしききよみ)さんは、御歳70半ば過ぎ。奥さんと二人三脚で工房を支えられている夫婦鍛冶としても知られているそうです。釜に風を送るふいご・鉄を叩くハンマーや刃物を研ぐサンダーはさすがに機械ですが、格子の窓から冬風も入ってくる土壁の工房を含めて想像する昔ながらの鍛冶屋さんそのままのイメージです。
こちらでも、奥さんと息のあった様子で鑿の刃を作るひと通りの工程を拝見しました。それなりに機械化の進む道具生産の現場で、今なお昔ながらの技法や工法にこだわる強い眼差しがありました。
全国各地の大工さんが、錦さんの鑿を求めてこの工房へ脚を運びます。すぐ側の住居の一室は入れ替わり来る大工さんの為に、製作された鑿が片付ける暇も無く無造作に散らかっていたのが、また格好良いのです。

人の手にせよ機械にせよ、頼る姿勢なく一筋に良い道具を目指す姿勢は、どの方も同じです。カネジュンの光川さんの言葉が印象的でした。「自分の手で出来ることを機械にさせているだけ、自分の手で出来ない者は機械を使っても出来ない」
機械頼りの僕には、まるで戒めのようなお言葉です。この日に参加された方の中には、遠くから来られた熱心な大工さんもいらっしゃいました。良い仕事は、良い腕と良い道具があってこそ、身が引き締まる思いがします。

鉋(かんな)・常三郎

鋸(のこ)・カネジュン

鑿(のみ)・錦清水

セミナー「江戸時代の木造建築リサイクル」

土曜日の午後、竹中大工道具館の「技と心セミナー」に行ってきました。講師は研究員の方で「江戸時代の木造建築リサイクル」というテーマでした。
以前に、尺貫法でシステマティックに構成された日本の家屋は、建具や畳をはじめとしていろんな部材が再利用出来ると言う話を伺ったことがあります。今回は、そうしたリサイクル事情の背景を少し伺い知る事ができたと思います。

日本の昔の衣食住のスタイルは、素材を生かし、資源を大切に使う、共通した考えがあります。例えば着物にしても、羽織が古くなれば前掛けや袋物にし、さらに古くなれば雑巾にする。そうした感じで、モッタイナイを上手に活用しています。きっと誰でも当たり前のように思っているでしょう。さらに、侘び寂びを代表とする古いものも新しくしてしまう斬新な美意識など、アンティーク趣味では無い独特の美意識を日本人は持ち得ています。物事を時空を超えて包み込むような思想が根底にあるのでしょうか。

講座の中で特に興味を惹かれた部分は、ある村での工事記録では居宅が村に82件あり、10年間での新築は1件しかなく、それ以外は修繕や増築で対応しているという話。解体された空き家の部材を土台や鴨居、下地の野材まで村の人たちが、買い付けにきていたと言う帳簿の話。大きなお屋敷では周期的に屋根の修繕が行われ、日常的に大工さんの出入りがあった記録の話。さらに、家一軒の部材を家の奥に貯蔵しているのは珍しくないと言う話。など、当時の生活を伺い知るようなところです。
養父が亡くなり幼い子供では管理できなくなった家屋を一端解体、整理保管し、何年か後に子供が成人したところでまた建て直すと言った話もあるようです。一般の家屋に限らず、お城から寺社仏閣にいたるまで、リサイクルの精神は行き渡っていた様子です。

当時の木材は伐採、製材、加工までの工程は今とは比べられないほどに手間が掛かり、端材であれ貴重だった訳です。だからこそ、材料を長い年月に耐えるようにする加工の技術は高度に成長し、伴い大工道具の発展も凄まじかったのでしょう。ひとつひとつに手間を掛けていたのは、決して一部の話では無かったに違いありません。

話は現代にもどり、ホームセンターに解体した家の部材があったら買う人がどのくらいいるでしょう?釘をきれいに抜いて陳列台にきっちり並べても、材料が新品のものよりずっと良いとしても、梁の穴が残ったりする材料を気持ち悪いなどと素通りし、思ったほどに買う人はいない。そんな気がします。なのに、古材と名打っただけで実はそれほどでもないものを高く買う人もいるでしょう。
江戸時代のリサイクル精神を今に再現するのは、なかなか難しい気がします。
私事では、現場の端材できれいに残ったものがあると、監督さんや大工さんに断り持ち帰る事があります。日曜大工を趣味にしているとは言えませんが、棚板やらなにやら結構使わせてもらっています。反面、使わずままの端材も結構転がっています。

そんな端材を眺めながら、モッタイナイ建築が考えられないものか。それを考える時間がモッタイナイ、なんて思い始めたらますます遠くなるのです。

セミナー「庖丁の守りと研ぎ方」

IMG_2069

昨日は恒例の竹中大工道具館のセミナーへ。「庖丁の守りと研ぎ方」というタイトルで、まさしく包丁のお手入れと研ぎ方を教わった。講師の庖丁コーディネーター・廣瀬康二さんは、大学でも講義をされたりメディアでも紹介される「庖丁を通して食の愉しさを伝える」庖丁調整士さんだそうです。「守り」は「もり」と呼ぶそうで、「庖丁」という字も実は初めて知りました。

お寿司屋さんや料理屋さんのカウンター越し、レストランのオープンキッチンでも、庖丁さばきの良い板前さんやコックさんの姿を見ると、目の前にまだ無くても今にも美味しそうな料理が並びそうな気がしてきます。無理無駄が無く、信念をも感じさせる人の動きというのは見ていて気持ちの良いものですが、廣瀬さんが庖丁を研ぐ仕草もまさしくそんな感じです。セミナーに来てうまい飯を食わせてもらえるような気さえしてきました。

内容はごく身近な庖丁の手入れですが、砥石の使い方など結構知らないことが多いことが分かりました。まず目の粗さで、荒砥石、中砥石、仕上砥石とあることさえ、考えれば当たり前ですがあまり意識していませんでした。ヨメさんに任せっぱなしってことがよ〜く分かります。

  1. 研いでいる時に出てくる泥(砥石の粉が混じった水)を洗い流さないようにする。これは、一般的な中砥石で研ぐ時の基本。
  2. 庖丁のサイズにもよりますが、先から手元までを三等分に考え、全体にまんべんなく研ぐ。
  3. 鋼の庖丁は15度。ステンレスなら30度。砥石との角度の目安。
  4. 添える手に力を入れず、肘で動かすように1箇所10回ぐらいずつ。
  5. 研いだ刃の裏面にカエリ(刃先のまくれ)があれば、基本的に終わり。
  6. 仕上げは泥を洗い流しながら、軽く5回ぐらい。(ステンレス刃は刃先が弱いので仕上げはしない。)

ごく一部ですが素人的に出来るお話から、庖丁それぞれには役割をもった形があるので整えてあげる。蕎麦切り庖丁は店の方も手を出さないほうが良い。と、玄人的なお話まで非常に分かりやすく話をされる様子もどことなく板前さんっぽいです。

実演では予め庖丁をお預けされていた参加者の庖丁を診て、この鋼の庖丁は以前に火にかけられたことがありませんか?焼きが戻っていますよ。この庖丁だと例えばネギを切ると、切れきらずに繋がってしまうでしょう。まず庖丁の診断。
鋼の庖丁は火に掛けてはいけないのだそうです。(暖めたいときはお湯につけるまで。)ついつい研ぎやすいところばかり丁寧に研ぎすぎて、庖丁本来の形が変わってしまっている。など、思い起こせばやってしまったことありますよね。

工事現場だと大工さんがお昼休みや合間に鑿の刃を研いる様子が思い起こせます。なにはともあれ、道具を大事にしなければ素材も大事に出来ないのですね。
身の回りに道具がたくさんありますが、ぞんざいな扱いばかりしている身には、愉しくもとても耳の痛いお話でした。

食道具「 竹上」庖丁コーディネータ 廣瀬康二

セミナー 鉋鍛冶「神田規久夫」

IMG_0457

「鉋-かんな-鍛冶「も作」銘・神田規久夫の記録

午前中に服部商店さんの工場を離れ、竹中大工道具館「心と技のセミナー」に向かいました。鉋鍛冶の石社修一氏の講演で「現代鍛冶技法の保存調査報告その1「鉋鍛冶「も作」銘・神田規久夫の記録」というタイトルです。それは、東京足立区の住宅地の中で、昭和8年生れの鉋鍛冶・神田規久夫さんが今も現役で仕事をされており、その仕事ぶりを同業の鉋鍛冶・石社さんがビデオにおさめた記録の公開と講演になります。
江戸大工からの背景もあり、もともと東京も大工道具(ノミ、カンナなど)の製造も盛んだったそうです。ですが今は、大都会に変貌する流れの中でそうした産業は土地の確保ができる地方に移り、個人で続けれるている方はほんのひと握り残っているだけ。道路から半間通路の奥、まさしく密集地のなかで昔ながらにトンテンカンとされる鍛冶屋さんがあるのです。生産を重視するメーカーだと、工作機械の設置や材料の入手や保管を考えるだけで、とても東京の街中では出来なくなる事は想像に難しくありません。
その対極、昔ながらの手仕事にこだわった数少ない職人さんの工房は、石社さんの言葉を借りればガラパゴス的に残ることが出来たと言う事です。神田さんは、ただひたすらに鉋の刃だけを作っておられるわけです。見せて頂いた映像も炉の火加減を見る為に特別な照明を当てる事もなく、実際に商品として作られる過程を2〜3週間掛けて撮影されたもの。作為的なプロモーションは全くなしなので、とてもリアルな感じがします。
おそらくは陽の目を見る事のなかった鍛冶職人の神田さんの刃は、たまたま鉋使いで有名な大工・阿保昭則さんの手に渡ることになり、見初めた阿保さんが神田さんを探し当てたところから、こうした記録になったようです。
メディアではこうした職人さんが取り上げられる事も少なくありません、ですが、神田さんのような職人さんは居なくなる事が必至かもしれません。話の始め、刀鍛冶は憧れもあって飛び込む若者もいるが、人目をひく事がない鉋鍛冶や鑿鍛冶は跡を継ぐ人がまず居ないと言われていました。先の大工・阿保さんは神田さんの鉋で3ミクロンという脅威的な鉋屑を削られます。鉋だけでなく、手仕事を支えるこうした本物の道具と技は、技術技術と声高にしていてももうすぐ無くなるのかもしれません。

より良い材を揃える服部さん、材を生かすために道具をつくる神田さん、機械化ではまねの出来ない何かがそれぞれにあり、それらが建設、建築の仕事、技術、思想を高めるひとつの要素になっている事に違いありません。でもいつか、それらは忘れ去られそうな何かになっている。ひとつでも多く、そうした何かを残せる仕事に関われたらと日ごとに思います。

セミナー「お茶室の壁の作り方」

IMGP3380
ラス下地・・・本文の内容とは違いますが。。。

 

今日のお昼、竹中大工道具館の「技と心」セミナーに行ってきました。
「お茶室の壁の作り方」と題された学芸員の方の講座なので、歴史や様式的な話が中心だろうと勝手に思いながらいたのですが、話が始まってみるとむしろ仕様や技巧のずいぶん実践的かつ専門的な話を聞く事が出来ました。先の数寄屋展で協力もされている京都の左官屋さんから聞かれた話を元に学芸員さんが解釈を交え、土壁(特に茶室の壁)の技術・技法や、左官と言う仕事の奥深さの一端を垣間見る事が出来たように思います。

左官と言えばすぐに思い出すのは鏝(コテ)ですが、その種類は1000を越すとも言われているそうです。曲がりの角や壁の出角に平たいコテでなく、折り曲がったコテや現場に合わせた半円のコテを用意されるくらいの事は知っていましたが、一般的に平にだけ思っていたコテには、ゆるりと膨らんだり凹んだりしているコテがある事は認識していませんでした。下塗り、中塗り、上塗りと言った工程またその工程内でもコテは使い分けれられているのです。接する面の違いでべた〜と塗るためのコテ、繊細に面の凹凸を感じ取りながら細筆を引くように使うコテ。そうです、コテは絵筆と全く変わらない。

話は変わりますが、現存する茶室は数多くあります。僕でも多少は見学に行きます。その折、薄汚れたというべきか味があると言うべきかは別として、古びた壁を見ながらう〜んイイものを観た。とたびたび感慨に浸っていたのですが、建設当初の土壁と言うのは実はほぼ全くないのだそうです。土壁の持ちというのは、つなぎの糊が入ったもので6〜20年、入っていないもので50年ほどとの話。しかも間が開くものだから師弟間での技術の伝承が難しく、復元はその都度改めて考えながらされているのがほとんどだとか。まあ永久って事はないだろうとは思っていましたが、感動してきた壁のほとんどがリメイク?だったとはつゆ知らず。ちょっとしたショックです。

そんな話を皮切りに、一般的な土壁と茶室壁の下地の違い、材料の気の使い方、土の種類などなど、ひと言で書くのはなかなか難しいお話をたくさん聞く事ができました。中でも面白かったのは、節がある柱への墨付けは墨壷に糸よりもテープが便利だとか。土を寝かせても思われていたほど強度が上がる訳ではないのだとか(施工性は格段に上がります)。

茶室と言う意匠(美)の探求こそが、左官に限らず職人の技術や材料や道具の発展を牽引してきたのだな〜。いちいち妥協していては、そうした事はなし得ないのでしょうね。建築道はまだまだ遠く果てしないです。

展覧会「数寄屋大工」

しばらく前の事になりますが、竹中大工道具館で開催されていた「数寄屋大工」展と同時開催されていたセミナーに行きました。
展示されていた実物大の茶室構造模型はさすがに迫力があり、外から観るだけでなく内部にも入れるので、ふ〜むふむと顎をさすりながら小さな空間を幾度も往復。規格にはまった材木を使い、金物だらけにしている普段の設計とはまるっきり違います。あ〜なんて軽やかなんだろう。目的が違うと言ってしまえばそれまでですが、こんなにも自由に考えられるのか〜と、ため息。ついつい枠にハマってしまって固くなった頭をほぐす必要があるような気さえしてきます。
もちろんひとつひとつの材料も違えば、隅々に至る手仕事の掛かり方も違います。それをそのまま自分の仕事に置き換える事はままならぬことですが、そこにあるエッセンスみたいなものを少しでも加える事ができれば。

先日に書いた料理家の辰巳芳子さんしかり、今回書いた数寄屋建築を支えた名匠しかり。どちらも自分の立ち位置をしっかり見つめて本物を作られています。決して小手先ではない。違う世界ではあっても、根底にあるものは変わりません。

ちょっと仕事が落ち着き間が空いて、ボヤっとしたところに喝を入れられました。何をするでもよいのだけども、常に自分の立ち位置を見つめて仕事をしたいと感じているところです。

セミナー「規矩術入門」

昨日、竹中大工道具館のセミナーで「基礎から学ぶ規矩術 入門編」となる講座を聴きに行きました。規矩術、広義では建築全体に及んだ設計術のような話ですが、狭義で行けば曲尺(サシガネ)を使った墨付け(加工上の線引き)の技術を言います。立体では3次元に捻った形状も、材料(主に木材)を切ったり削ったり加工する時には2次元にしないとどうすれば良いかが分かりません。ただ単純に上から見たとこ、横から見たとこと言う訳にもいかず、斜め向こうに上がって行くラインを再現するにはその材木上ではどう切り込めば良いのか?になります。分かりやすく?言えば幾何学の世界。数学の授業が眠たくなる人はつらいかも。
ところで、曲尺とは90度に曲がりのある定規です。大工さんがいつも片手に持っているイメージが出来るあの定規です。ウラオモテに寸法が刻まれていますが、ウラの一面には、ルート寸法が刻まれているのだそう。も、逃げたくなる人いませんか。
講義後半は、 曲尺の使い方と幾何学上の関連を解きながら話が進むのですが、ココがこうなるからこうなって、ソレがそうなる訳です。分かりますか?と先生の問いに、会場にいる皆さん(僕も含めて)、ビミュうなニガ笑いに包まれます。久しぶりに落ちこぼれ学生の気分を味わった感じです。放課後の補習が無いので助かりました。
まずは入門編と題されたこの講義、次回応用編があれば間違いなく行くでしょう。ただし、さらにチンプンカンプンなことになりそうです。

規矩術 – Wikipedia

セミナー「阿保昭則 – 大工が教える本当の家づくり」

今日午前中は竹中大工道具館「技と心のセミナー」に行き、 日本一のカンナ削り名人の大工・阿保昭則さんのお話を聞きにいきました。表題の通り、「大工が教える本当の家づくり」。千葉で耕木杜という工務店をされている人気の大工さんと言って良いでしょうか。と書きながらも、実はあまり知らずにいたので昨晩にネットで予習し、初めて知ったところです。

一時間半の講演でいろいろと考えさせられました。
と言え、特別な話が聞けた訳ではありません。内容だけを羅列してしまえば、ごくごく普通に当たり前な話だと思います。物件への取り組みの方法や姿勢、施主さんとの付き合い、健康に気遣う建物を目指し、喜びを分かち合う。普通(と言ってはいけないかも知れませんが)の大工さんと一線を画すのは、単に職人の域を超え、建築家や設計士以上に現在あるべき住い・建物のあり方を探求する心と思います。

伝承や決まり事、現場で疑いもなくそういうものだと言ってしまう事ひとつひとつに疑問を投げかけ、自分のものになるまで諦めない。それを淡々とやってきたことで自信に溢れたひと言ひと言であったように思えます。その自信ある言葉に、実は打ちのめされた感じです。

自分が仕事をしていく中で大切に考えようとする日々思っている内容と、阿保さんの話に大きな差異はありません。しかしあきらかに違うのは、それをやり遂げているか否かです。

セミナー「初期木割書の世界」

先週の土曜日に久しぶり、竹中大工道具館の技と心セミナーに行ってきました。「初期木割書の世界〜中世の建築設計技術を探る〜」と題された道具館の学芸員さんによる講演です。木割書とはなんぞ?分かりやすく言ってしまえば、建築技術書です。とは言うものの写真の通り、古文書です。漢字ばかりという訳でなくひらがなやカタカナのものもあります。文字が無い時代、道具と技術は五官を駆使して伝承されてきましたが、言語が発生発達し文字が誕生し、当然ながら技術の伝達はそれまでの口伝や見よう見まねから、媒体での伝達に変わっていった訳です。

世界には未だ五官だけの伝承が続くところもあるそうですが、それは技術を盗まれない為だそうです。そう考えると、日本はやっぱり平和です。どうやらこうした木割書は秘伝書から始まり公刊書に移り変わっていったようですが、ことの始まりは技の自慢にあったようです。俺んちにはすげぇ秘伝書があるからよ〜お前らには負けね。なんてやってたんでしょうか。やはり平和。
木割書の内容はどちらか言えば寸法体系(モジュール)の構築が主だったようです。 柱や梁、垂木のサイズを一定比率に現すことで、誰がやってもある程度に整った形を作り出せる(もちろんそれなりの技術あっての話でしょうが)。そうした俺んち流を伝えられるように、もしくは忘れないようにするのが一番の目的だったようです。中には観念的哲学的な人もいて、大工とは何ぞやと深みにはまっていくものもあったそう。なににせよ、世界に類を見ないほどに日本には建築書が多いのだそう。平和だけでなく、日本という国はそうした技術を育む土壌が自然にも思想にも羨ましい程にそろっていたのかも知れません。いや平和どころか、乱世を生きる術だったのかもしれません。

秘伝書がやがて流出し公刊書に移り変わっていくに従い、文書の中身はだんだん誰にでも分かるような内容になっていきました。小難しいことばかり書いてあってはベストセラーになれないのです。その技術の拡散の陰で秘伝書はなくなっていく。もしくはマニアな世界になっていく。結局今と変わりません。伝統を残す難しさは、今に始まったものではない気がします。

こうした木割書は当時の棟梁やその弟子によって書き連ねられ、改訂が重ねられたりもする。中にはアチコチの木割書を書き写して並べただけのものもあるそうです。棟梁の発生も頭と実力が秀で人心を掴み、乱世を生き残る為に段取り上手なプロデューサーが必要だったのです。話を聞いて想像している内、はじめ思い描いた建築家と言うよりもゼネコンの社長に近い存在だったのでは?と思えてきました。

それよりどなたか、今の乱世を生き残る術の木割書はどこかにないものでしょうか。

セミナー「ヨーロッパ大工の技」

先週末、竹中大工道具館で催された特別セミナー「ヨーロッパ大工の技」を聴きに行きました。講師はドイツの木工職人ヘンリヒセンさんという方で、日本での修復工事を行った経験もあるだけあって、流暢な日本語で冗談を交えた講義はとても楽しいものでした。講義はほとんどヨーロッパ大工の技の実演で、ドイツの土台の継手模型を製作しながら進みました。実演の合間に大工道具箱の伝統、墨付け方法、鑿や鋸を使った加工についての解説を、日本の道具との違いを加えながら説明していただけ、材料の違いなどもあって道具の発達の違いになっていった過程が少し実感できた気がします。

日本は桧・杉・松など針葉樹が材木の中心ですが、ドイツでは樫・楢など広葉樹が構造材・造作材の中心として使われてきたそうです。そして日本の桧のように扱われるのがこの樫だそうです。樫と言えば水や虫に強い材料ですが、反ったり、縮んだり、木がまっすぐ育たないので長ものの材料が取れないなど扱いにくく、また字のごとく硬い木の代表でもあります。これら硬い材料に立ち向かうには、日本のような繊細な道具では歯が立たないという訳です。ですから道具としては日本よりも単純で堅牢さが求められました。ヘンリヒセンさんは先進国なのに大工道具はとても原始的。と言われていましたが、それが理にかなった結果なのです。その逆に扱いやすい材料があったからこそ、日本は大工技術は高度に熟して行ったと思われます。

また、日本の様に身体を使って木を押えながら作業をすることも少ないそうです。向きを変える度にもしっかり作業台に固定しつつ,作業を進めます。当たり前に思っていた足で押えつつ作業をする姿は、実は日本独特なものだそうです。差し金のような物差しも同じ様にありますが穴がいくつか開いてあり、そこに鉛筆を差込みケビキ(線引き)をしたりもできます。ひとつひとつは合理的な感じがします。しかし日本のような削ぎ落されて進化した道具と違っており装飾も多いので、怒られそうですがどことなくプロっぽく無かったり感じてしまいました。

それぞれ良し悪しはあるでしょうが、やはり日本の道具は優秀な気がします。三木や小野の刃物メーカーさんはドイツでもとてもポピュラーだそうです。ヘンリヒセンさんがドイツの道具を本国から送ってもらうと、日本のノコギリが入っていましたよと笑って紹介されました。

セミナー「古代東アジアの木塔」

ホント倒れそうなくらい暑い日が続きますね。駅前でイチローも水浴びさせてもらって気持ち良さそう。

久しぶりに竹中大工道具館のセミナーを聴きに行きました。日本や韓国・朝鮮、中国の塔のお話。演台の箱崎先生が、この話は「話すのが難しい」と最初に言われただけあって、何をどう書けばよく分かりませんが、とりあえず。

塔と言えば法隆寺の五重塔。しかし、その設計法や施工法の技術はその当時どのような伝来であったか、まだまだ謎の多くが解明されていない様です。日本には他に比べると現存する木の塔は多く、遺跡も数知れずあるそうです。その遺跡の中には、法隆寺の塔が6〜9つぐらい入りそうな大きなものもあるのだそう。そんな塔が今も残っていたら、世界遺産だらけになるに違いありません。それに比べると、中国朝鮮の木塔は片手程しか無く、現存する塔はどちらか言えば石やレンガのもの組石造だそう。もしくはその混構造になるようです。また塔と言うよりも堂と捉えられるような建物が多く、日本の状況は世界的にも類を見ない木塔乱立国と言ってよいのかも。

ただ特に朝鮮の木塔が現存しない理由のひとつとして、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に多くが焼き尽くしたのだとか。なんちゅう事をするのでしょう。もし現代でそんなことしたら、日本は間違いなく四面楚歌状態にです。丁度この間観たNHKの大河ドラマ「江」がそんな秀吉をやってたところ、岸谷五朗の顔を思い出してしまいました。北政所と共に止めさせるべきでした。であれば、今日の話はもっと面白くなったかも。

スライドで紹介される中、やはり日本の職人の技はスゴい気がします。それは美意識なのか、どう考えても他に比べると複雑な構造を求めていたようにも思えます。ただ、何故だろうと正直思うのは、現存する最古の塔・法隆寺が一番美しいバランスでスマートに建っているように思えてなりません。聖徳太子の美意識は並々ならぬものだったのか?それだけでなく法隆寺の伽藍のバランスも、現代の美意識に一番近い気がするのです。その点だけ捉えて自分なりに考えれば、もっと後期なものであっても良さそうなもの。美意識の変遷がどのようにあったのか。そう言えばそうした時代のそうした建物にまつわる話はあまり聴きません。主観的になりそうで、難しいテーマだから?現存の資料が少なすぎるのでしょうか。そんな研究をされている方の話があれば、是非に聴いてみたい気がします。

 

セミナー「鉋の切味について」

見えないものの数値化するのは難しいが、数値化しずらいものは伝えにくい。今日の午前中、鉋(かんな)の刃などを製作される鍛冶職人・石井修一氏のお話を竹中大工道具館のセミナーに聴きに行きました。

おそらく日本人は特に、数値化しずらい微妙な感覚をいろいろな言葉で伝えようとします。一番身近でちょっと嫌なところで言えば、「人に甘い」「人に辛い」とか。人に「甘い・辛い」とはなんぞ?考えてみれば、分る様で分らない。ましてや、人それぞれの感覚もあります。

今日の講演は、大工さんから鉋の切味について、「甘い」「甘切れ」「柔らかい」「硬い」と言った抽象的な感想をもらうにつれ、その評価はどのような感覚から発生するのかを突き止めようと試みた石井先生の研究成果です。鉋の刃の製作過程において、鍛冶職が鍛造と焼き入れが良好と思える甘い刃と硬い刃を、木工職はどのように受け止め評価するのか?実際に硬度の違う3種類の刃を用意し、杉や桧、楢や欅などいくつかの木を削ってもらい、どのような違いが発生するかを検証されました。

さて、細かい話はともかく、刃物なのだから硬いが良いに決まっていそうなものですが、実際の結果は柔らかい刃が、一番それぞれの木に順応する様です。特に柔らかい杉の白太は、「甘切れ」と呼ばれるどちらか言えば出来が良く無いと評価されがちな柔らかい刃でないと、仕上げられないと言う結果でした。ここで、「甘い」の「柔らかい」のと書いていますが、実際の刃先を見ても素人目にはさっぱり分りません。製作過程の温度が違うという数値が分ったとしても、軟らかい木に対して硬い鉄が相手でなのです。何が違ってそうなるのやら、本当に微妙な感覚の世界としか言えません。理解できたとしても不思議なことに変わりがありませんでした。

頂いたレジュメの中で引用されていた石井先生のお師匠のお師匠さんの文章が、とても興味深いので書き写しておきます。

 返品の中で数多い批評は「甘くて切れない」という小言である。私は剃刀の一挺一挺の硬さを計って、その数字を箱の表面に書いて置くが、随分硬いと思う品物に対しても、此の批評が附いて凱旋して来る。(中略)では何故これを甘いと云うのか。
うんと軟らかい甘切れの物を好む人と、もの凄く硬いものを好む人と、人によって違うのである。従って甘切れを好む人に、硬いものを送れば直ちに返されるし、逆に硬切れを良しとするお方に軟らかい物を送れば、お小言を食らうのは当然である。之を二人の間に入れ替えると、両方から賞賛される。
百人に一人くらいの割に、甘切れの物も、硬い物も、送った物を凡て切れると云って下さる有難い人がある。此の人達に会って話を聞くと、甘切れの剃刀は、女子に用い、硬切れのものは大髪に使うと云った具合に、髪の性質によって剃刀を使い分けると言うのである。

岩崎航介「刃物の見方 」(1969)

これを読むだけで、なんて微妙な感覚だろうか、と思います。

そして、出来上がった3種の鉋の刃先を石井先生は、また別の有名な鍛冶職人さんに観てもらった時、その方は目視だけで3種の硬さ順を並べられたそうです。なおかつ3種と別に持参した、間の硬さの刃をも順に並べられたそう。職人世界の奥深さに驚嘆します。

鉋の切味について -2008年度竹中大工道具館共同研究事業成果報告-

講師:石社 修一(三条製作所石社鍛冶屋)

刃物の切れ味は「甘切れ」、「硬い」、「辛い」等という言葉で表現されますが、一般人には分かりづらいものです。そこで、鋼種別に鉋を製作して削り試験を行い、大工の阿保昭則氏、大工道具店の土田昇氏の協力を得て、切れ味がどのように変化しているのかを調査しました。大工と鍛冶の相互理解の秘密に迫ります。

財団法人 竹中大工道具館 – Takenaka Carpentry Tools Museum

*:参考リンク

セミナー「削る技術と身体の動き − 熟練大工を科学する − 」

竹中大工道具館「技と心」セミナーに行きました。今回は島根大学教授・山下晃功先生による「鉋(かんな)」の話。その山下先生の自己紹介から講演がはじまるやいなや、その話し振りがおもしろくビデオやCGを使った内容に1時間あまりの講義があっと言う間に終わりました。

鉋で木の表面を平に仕上をする様子はごく当たり前のように見えますが、山下先生はなぜ?こんなにも薄く削れるのか?さらに木の目に逆らう逆目に削っても美しく仕上げるのは何故なのか?その単純な疑問からスタートし、中等教育で教える教員を指導する現場に従事する立場になられた事もあり、鉋の世界を学術的に体系化し学問的に後世に伝えようと試みた世界で唯一のカンナ博士と自称?されています。

37.5度

ヒノキを削る際に最適な宮大工の鉋の刃の角度です。90度、60度、45度といろいろな角度でヒノキを逆目に削る様子を、高速度撮影のビデオ映像で紹介されました。同じ鉋の刃先でも切れる様子が全く違いました。37.5度以外の角度では目が逆らって表面がざらつきます。なのに37.5度ではまるで違う。そして、切り屑が美しく鉋から排出される。また、一枚刃の場合、裏金のある2枚刃の場合など、ヒゲソリのコマーシャルではありませんが、その削れる様子、それに至る先人の知恵や工夫がビデオの紹介でとても良く理解できました。

後半には鉋を扱う人の動きに着目した話が続きます。骸骨が鉋を使うCG映像の説明で会場が沸きましたが、どこでどんな風に力が入っているのか、とても良く分かります。鉋を扱うにはヘソが重要だそうですが、上体の鉋と肩とヘソを結ぶ三角形が崩れない様、一定の力で引くことが肝心なようです。理解出来ても容易く出来る訳ではないと思いますが。。。

最近の建築現場では鉋を引く様子が実はあまり見られません。ほとんど工場で加工されてきた材料を組み立てるだけで済むようになっています。幾種類もの鉋を並べる大工さんを今は見ることがほとんどありません。昔は鉋台が現場の中心に据えられ仕事が進んでいた様に思いますが、今はベニヤで組んだテーブルが中心。そんな様子を見ても、技の継承は危うい様に思えてなりません。山下先生はもし、ロボットに鉋を使わせるにしてもそのデータは人間がインプットしなければ成立しない。いくら道具が発達しても、基本は人間にしか無いだと話をされていました。

スポーツの世界で人の動きが科学される様子はテレビなどを通して、日常的に知っています。今回の講義で、道具の進歩もさることながら、大工さんを始め職人の世界は人の動作が極められる事があってこその技術なのだと改めて知る事が出来ます。奥の深さにさらに感じ入りました。

セミナー「大工棟梁の技と古典建築学」

竹中大工道具館
竹中大工道具館

神戸元町北にある竹中大工道具館の主催するセミナーに行ってきました。興味の湧くセミナーがあれば行く様にしていますが、実はかなり、久しぶり。。。

今回は、「大工棟梁の技と古典建築学」。名工大の先生の講義でした。大工棟梁や日本の建築がどのように後世に伝えられて来たのか。自分が知っていた以上に昔から学問的な体系があったのだと知りました。

師匠から弟子への口伝、見て盗め的な世界が近代まで続いていたのだと勝手に思っていましたが、体系的な(教科書的な)建築技術の文書での伝承は室町末ごろからスタートしているようです。いわゆる秘伝書みたいなところから始まっているようですが、面白かったのは、それが弟子育成のための教科書というよりも、営業目的のポートフォリオみたいな存在にも変遷していくという話です。
もちろん始めは、自分の会得した技術のメモ書きみたいな物から始まっていますが、溜まってくれば整理整頓。折角作ったそれらを、ただ自分や弟子らが見るだけでは勿体ない。今も同じですが、建築の営業をするのに現物を持って歩く訳には行きません。完成物件の見学に現地へ来てもらうのも、お客さんの都合もあるしで、やっぱり大変。なので、写真にしたり図面にして営業ツールにしたくなる訳です。

ウチはこんなスゴい物をしっかりやってるんだぞ。って自慢の書になって、広まって行く。
そして公刊本が産まれる。しかもブランド価値を高めるために、その発生がホントかどうかは別に流派を勝手に名乗る。その時代もナニナニ流、ナンヤラ流とあったようですが、比べるとよ〜分からん違いだったり。

人の考える事は、今も昔も変わらんのだな。別な次元でついつい感心してしまいました。1時間半ぐらいの講義でしたが、眠気も起こらず来て良かったです。道具館に所蔵されている当時の巻物が、講義の為に本日限りの公開もあったオマケ付き。400年も昔の図面が並んでおりました。筆で描かれた図面と言うには、製図ペンで描いたんじゃないの?って思いたくなる精緻な絵です。
ホ〜とか、ハ〜とか、ヘ〜とか、見ている皆さんのため息が聞こえていました。こんな伝承では全くあきまへんが、頭に残っているうちにまたメモっておきます。

西洋でもそうであったように、日本の建築も美術、哲学、数学といった分野と密接な関係を持っていました。大学での西洋建築の講義はそうした関連が強く意識されて、話が展開していたように記憶しますが、今回伺った話で、日本の建築もそうであった事がよく分かります。

数学。日本の建物は西洋のものと違い、柱、梁と言った線で構成されている建築と言っても過言でないと思いますが、随分古い建物でも、きっちり垂直・水平、直角でもって建っています。その点、日本人は古来からきっちりしているみたいです。
ピタゴラスの定理で3・4・5の辺の三角形が直角を生成することは、大工さんたちは経験的に伝わっていますが、正五角形の作り方なんかも、先の秘伝書に紹介されていました。しかもごく身近な方法で。

建築の体系化が進んでいけば、様々な形を種類分け、分類分けしたくなるのは今も昔も変わりません。寺社に見られる跳ね上がった屋根の形状も、幾何学的に分類されていたりします。正直もっと感覚的なものかと思っていました。
一人の棟梁が頭の中の設計図で工事を進めるだけならまだしも、時代が進み請負工事といった組織的な建築工事が発生すると、そうした図面化の必要性がさらに強まります。大勢の人に説明するのに、こんな感じ、そんなぐらいなど、感覚的な説明だけでは伝わりませんし、設計者はどの業者が請け負っても思った物が出来ないと困る訳です。

また工事金額の相見積りをするには、それぞれの請負業者に図面を渡さなくてはなりません。
よって、昔の棟梁は仕事を得るためには数学もできないと金勘定もできない。如何に安く工事が出来る様にするか頭を悩ませるのは、これまた今と全く変わらないわけです。秘伝の教科書には、ちゃんと積算(見積)についても書かれていますし、どれだけの人工(にんく)でどれだけの仕事ができるか、そうした事も記述されているそうです。しかも例題付き。う〜ん、頭が痛い。。。
なので、和算の学者さんが建築設計や工事に関わっているのも当たり前のようですし、複雑な建築様式が発達すれば、数学も伴って発達していったそうです。
建築って、トータルな感覚が本当に必要なんですね。建築道は険しい。

ところで、正五角形の作り方。お分かりになったでしょうか。
初詣でおみくじを引かれる方も多いかと思いますが、大凶なんかが出た日には、真っ先、木の枝なんかに結んで帰りますよね。そこで、きっちりきれいに結ばれたおみくじを思い出して下さい。
その結び目。五角形になっていませんか。言われてみればその通り。講義の最中、ホ〜と感心のため息が漏れてしまいました。