百と100 〜 北斎と安藤忠雄 〜

あべのハルカス美術館で開催中の「北斎展 – 富士を超えて -」と、大阪国際会議場で開催されたアイカ現代建築セミナー「安藤忠雄講演会 – 新たなる挑戦 -」に行って来ました。一日でこなす行事としては、ちょっとばかり濃い感じ。

「北斎展」

平日なのにスゴい人混みでした。昼すぎ会場に着いて当日券を買うのに3〜40分の行列。さらに入場10分。予期せず1時間ちかく行列に並ぶ羽目となりました。北斎人気にびっくり仰天です。

この北斎展に合わせて放送されていたNHKの特番やドラマをほぼ欠かさず見ていました。絵を描く人にとって、挑戦的な姿勢で画業を全うする北斎は憧れの一人でしょう。日本人画家?で一番知名度があるのは、やはり北斎の気がします。小学校の美術の教科書に載っていただろうと記憶を辿っても、いつの頃から北斎の名前を知っていたのかさえ分からない人も多いのではないでしょうか。そのくらい北斎という存在は日本人に浸透している気がします。

展示は北斎が70~80~90歳代に渡る後期のものがメインで、卓越した筆使いにいちいちため息がでてしまいます。ドラマの中で幾つになっても絵の上達を目指す北斎の貪欲な姿が描かれていましたが、展示の最後あたりになると片隅に「百」の印が押された画が並びます。当時なら既にヨボヨボ長寿の筈と想像するのですが、さらに百歳まで絵を描き続けようと88歳から全ての作品に使っている印章だとか。ただただ恐れ入ります。

「安藤忠雄講演会 」

現代において知名度の高さなら北斎に劣らずの建築家・安藤忠雄氏。北斎展に押されて開演ギリギリの到着。会場後ろの席で中心通路際に座っていたら、開演同時に安藤氏が横を颯爽と通り過ぎていきました。癌の手術を受けられていることはご存知の方も多いと思いますが、そんな気配を感じさせない凛とした歩き姿です。

ステージに上がってまず、ちょっと摘出手術したけどしっかり元気やで、いつものガラガラしゃべりでアピール。さらに正面スクリーンに映し出された「100」の文字。何かと思えば、百歳まで仕事しまっせと宣言したのです。なんと、北斎とおんなじことをしてるやん。。。御歳は76の筈。北斎の宣言まで後12年ありますが、十分にのけぞりました。北斎展に合わせた余興だったかどうかは定かでありませんが、ここから4半世紀はまだまだ譲らん!という勢い。講演会でそんな宣言をする建築家っていうだけで、ただただ恐れ入ります。

いつものように住吉の長屋から始まって、最近のプロジェクト紹介。地平水平を超えた仕事っぷりにため息ばかりでてしまいます。適度に笑いを織り交ぜ、聴衆をサービス精神旺盛な飽きさせない話しっぷりにも脱帽です。

百と100

二人の作家に思わぬ共通点。今の自分に満足することなく我武者羅に、いつまでもどこまでもやり続けたい一心こそ、作品以上に人々を惹きつける魅力なのだと知る一日となりました。

渋すぎなアニメの聖地?

アニメーション「傷物語」公式hp-制作陣

年末に飛び込んできたプレゼン仕事をようやく終わらせ、結果は天任せにするとしてホッと一息しているところです。今回プレゼンを手伝ってもらったH氏とお昼ご飯を食べて雑談中、正月息抜きに観たアニメ映画「傷物語」を思い出しました。すっかり書くタイミングを逸しましたが、ある事にインパクトがあったので、改めて。

何に驚いたかと言うのは、メイン舞台の一つとなった建物でした。映像全体に渡り、非常に丁寧に背景が描かれた作品ですが、どこかで見たような既視感に襲われます。心象的に描かれた演出に相まって、どのシーンの風景も舞台装置のように象徴的な扱いになっています。その一つが、丹下健三「山梨文化会館」でした。映画を見ている最中にアレっ?なんか似てない?。。。いやいやソックリソノママ。と言っても実物を見たことが無く、昔むかし雑誌でチラッと見た記憶なので自信も無く。ヨメさんに小声で、たぶん丹下健三。。。って呟いていたのですが、後でネットで確かめてみると、やっぱりソックリソノママ。(もちろん、後で自慢)
ネットで誰かそこについて書いてないかと探しましたが、観たアニメも結構オタクな分野?なので、思うほどに見つかりません。ようやく見つけたのは建築とアニメを研究されている明治大学の森川喜一郎氏のツイートでした。
氏のツイートによると「傷物語」に出てくる丹下建築は「山梨文化会館」だけでなく「丹下自邸」も使われている。。。と。なんと!? 残念、そこに気づかないただの建築音痴でした。

最近のアニメでは敢えてロケ地がわかるよう丁寧に描かれることが多くなりました。西宮にも超有名な”聖地”があります。そんな流れの中でも丹下健三は渋すぎです。
確認すると映画はまだやっているようです。日に一本程度ですが、まだやっている人気アニメなのですね。。。も一回、行ってしまいそうです。

何より、こうして描かれ”残され”る丹下建築はやはり偉大です。

セミナー:安藤忠雄「生き残りを賭けて」

安藤忠雄アイカセミナー

昨夜、ヨメさんが行きたいと言った事もあり、応募に当たった安藤忠雄氏のセミナーに行きました。建築関係のセミナーはボチボチと行っていますが、建築家の講演会はこの以前に行ったのがいつか思い出せないくらい久しぶり。それでも安藤氏の講演会は、過去3度くらい行っているはずで、最後は書籍「連戦連敗」出版の頃になる。

どことなく”あまのじゃく”になり、建築家の話に素直に耳を傾ける事ができなくなっているところも無いと言えない。に関わらず、気がつけば安藤忠雄講演会には都合4度目。建築の仲間うちでも、安藤忠雄氏の仕事を諸手を上げて評価するのをあまり聞く事がない。でも、「安藤さん」なのだ。コレは考えるもなくスゴい事。今回も適当に聞き流しておこうなんて未だに斜交いな態度であったはずが、話が始まって約2時間の講演に眠気も無く最後まで聞き入ってしまった。なんて話上手なのだろう。

大抵建築家の講演会と言うと、よく分からない単語が並んで話半分も理解出来ない。ことが多い。抽象的な比喩が並び、具体的なイメージをすぐに連想出来ないからだ。しかし、日本だけでなく世界でも一番有名な建築家・安藤忠雄の話は壮大なスケールでダイナミックだけど、具体的であり、身近な出来事も話に交え非常に分かりやすい。これがまた、「安藤さん」たる所以に思えなくもない。

日本の未来を想う話、政治に任せず各自が自立し挑戦せよと言う話。事務所設立頃の話、六甲の集合住宅一連にまつわる話。そして近作の話と続き。そして、そろそろ会場の人も聞くの疲れたかな〜と雰囲気漂い出した頃、「ありがとうございました!」と、スパッと切り上げる様に、帰り道のヨメさんは思わずカッコイイ!と絶賛しておりました。
確かに「生き残りを賭けて」とは、その話の中身よりも、この話しっぷり、見事なパフォーマンス、そして潔さ。安藤さん自身の「立ち姿」そのものなのだと想う一瞬でした。

ヨメさんはさらに馴れ馴れしく「あんちゃん、あんちゃん」と、まるでアイドルのようにように呼んでおりますが、建物をそんなに知っている訳ではありません。旦那の職業もあって、他の建築家さんの新聞記事やテレビの番組も見ていますが、「あんちゃん」に到底及びません。
会場が溢れて、ロビーのモニターで講演を聞いていた人もいたそうです。あらためて、建築家「あんちゃん」の人気ぶりと影響力に驚きます。

Koolhaas Houselife

www.bekafilms.it

これはちょっと感動したのでご紹介。
レム・クールハースというオランダの建築家の住宅です。
雑誌の写真でしか見た事が無かったのですが、このビデオ見てひっくり返りました。
いや〜いいです。う〜ん、かっこいい。の一言。
こんな住宅設計してみたいです。クールハウスです。
シャレじゃなくホントにそう思った。

こちらに映像2点を載せたサイトあります。
> noticias arquitectura / blog: Koolhaas Houselife

学生時代その後もクールハースの作品は、本でよく見返しました。未だ新鮮です。
続きにクールハースさんの初期住宅「VILLA DALL’AVA」の映像2点を載せておきました。
>  続きを読む

年の瀬に:石井修

昼頃、事務所の扉がガラっと鳴ったと思えば工務店の社長さんだった。
年末の挨拶ということで、カレンダー片手に突然の来訪。もちろんアポ無し。
久しぶりにお会いしたのでしばらく話をした。
工事をお願いした物件の話は花が咲く。
担当した監督さんや棟梁、大工さん、業者さんの工事中には聞けなかった身内の話。
そしてついつい、他に関わりを持たれている建築家さんの話。
そんな中で、社長の口から必ず出てくるのは故・石井修先生の話。
この工務店さんが石井先生の仕事を請け負う様になったのは、15年程前からの事だそうだ。
石井先生がすでに70を手前にした頃になる。
先生が大手建設会社を退職して設計事務所を開いた時には、すでに40を過ぎている。
西宮市目神山には石井先生の一連の名作が多く所在しているが、
自然と対峙、共存するかのようなシャープな印象を受ける初期の作品は、
すべて40を過ぎてからの仕事と言う事になる。遅咲きの建築家なのだ。
竹原義二先生が20代後半で石井先生の弟子になったのもその頃。
そして、石井先生は85まで仕事をされていた。
その年齢になっても、いや、なったからこそ、がむしゃらに建築と向き合っていたに違いない。
そう考えると、40を過ぎてしまった今の自分が、なんとガキンチョな事か。
まだ40年以上ある。話を聞いている内、少し恥ずかしくなった。
もうひとつ。
石井先生の仕事は、木、鉄、コンクリート、、、素材を出来るだけ自然な状態で使う事が多い。
おのずと新建材や工業製品を材料として使う事が少ない。
だからなのか、メンテナンスが実に少ないのだそうだ。
材料が古びても、それが味わいとなって住まいに同化し、交換する必要が無い。
石井先生と懇意になっていた方が、目神山の裾に工務店を始めたが、
メンテナンスではほとんど儲けにならなかった、と社長さんはその方から聞いたそうだ。
100年、200年住宅とは本来そう言うものでは?そこに、キーがあるのでは?
そんな話をしながら、2度恥ずかしくなった。
こうした石井先生のエピソ−ドは、社長さんの口から止まる事が無い。
最後に、そんな建築家は他に知らない。のだそうだ。
むろん予算あっての建築普請だが、それを口にしては罰が当たる。
本当は何がやりたいのか、もう一度考え直したくなった。
年の瀬に良い話を聞けたと思う。

キリンプラザ:高松伸

KIRIN PLAZA OSAKA

キリンプラザがこの10月末に閉館になる事を思い出し、
近いうち心斎橋まで行く機会があると思えないので、昨日、慌てて見に行った。
閉館の後にどうなるのかよく知らないが、建て変わってしまうのだろうか。
正直に残念でならない。
キリンプラザが建ったのは、建築を志すほんの少し前。
大学で建築を学びはじめた時分、恥ずかしくも、知っている建築家は、
安藤忠雄、丹下健三、黒川紀章、そして高松伸。ぐらい。(情けない話。。。)
その中でも自分にとって、高松伸はスター的存在だった。
ドローイングの圧倒的な迫力は、今も尚、他を寄せ付けない気がする。
キリンプラザはともかく、カッコ良かった。ただただ、それだけ。
しかし、それが一番。
その後いろんな建築家を知って、さらに感化された建築もあれば建築家もいるが、
リアルに建築のスゴさを意識して感じたのは、キリンプラザが始めてだっただけに、
閉館になる事は、本当に惜しい。
ドローイングのような湿っぽさは無く、カラリと晴れた空と色めく雑踏に乾いた空虚感が漂う。
今の時代には再びはあり得ない(だろう)存在がまたひとつ消える。

カキノイエ:渋柿狩り

竹原義二×絹巻豊「100+1のイエ」展

いつも竣工写真をお願いしている建築写真家さんから展覧会のDMを頂いていた。
大阪に打合せに行く機会を利用して、覗きに行く。
「 竹原義二×絹巻豊 「100+1のイエ」展 」
 INAX the TILE space 2007年3月1日(木)〜3月17日(土)
竹原義二氏は関西の大御所住宅建築家。無有建築工房という設計事務所を主宰されている。
種?を明かせば、このワタクシは、この竹原先生の弟子の弟子。孫弟子?
そんな縁もありながらで、写真家の絹巻豊氏にほとんどの竣工写真をお願いしている。
撮影現場に立ち会って頂いた施主さんは、ご本人の人柄も憶えていらっしゃると思いますが、
甘いものが大好きな気さくなオジサンです。和菓子はめっぽう詳しい。
絹巻さんと馴れ馴れしく呼んでいたりしますが、関西の大御所建築写真家。
展覧会は竹原先生の101番目の家(ご自宅)までの、図面や模型。
そして、絹巻さんの写真が時系列に展示されていました。
共に置いてあったワタクシの師匠(竹原先生の弟子)の見覚えある図面を眺めたり、
勤め始めに覗かせてもらった住宅の写真が飾られてあるのを見ると、ちょっと懐かしかったり。
そうしていると、竹原先生の住宅を数多く手がけている工務店の社長が現れたりもする。
こんな時は、ちょっとした裏話が聞けたりで面白い。
絹巻さんの写真を眺め直し、こんな風に飾ってもらえるものを作らないと。と思いつつ。
最近お気に入りだと聞いている中国茶の差し入れでもして、気合いの入った写真を撮ってもらおう。
と、無駄な画策を胸に秘める。

バラガン

久しぶりに模型を作って肩が凝る。
小さい模型だが、昼からイッキに2つ作って、プレゼン用の写真も撮り終えたら、
ぐったり背中に疲労感が来た。ふ〜〜。
外見は単純な形だけど、中に入れば思いも寄らない感じで、
結構おもしろい感じに仕上がった、と自画自賛しておこう。(この前のエントリの続き?…f(^_^;))
模型をくるくる回しながら、建築ってなんだろう、とふと思う。
先日「世界遺産」でルイス・バラガンの住宅が放送されていた。
どれも豪邸だけど、華美な訳ではない。奇抜な訳でもない。
街中に佇む様子は、他と馴染み、調和を乱しているものではない。
が、一旦中に入ると、思わぬ空間が広がっている。やっぱりスゴい。
ナニガチガウノダロウカ?ナニカガチガウ。
いろんな哲学や思想や方法論で、建築の意匠や構成が形作られる。
住宅なら、生活そのものや環境やらの様相を過去、現在、未来に渡って検証し、
現代の建築家として、社会性やらなんやらの提言を唱えるだけのコトをしないと、
世の建築作品として、認められるものになかなかなるものではない。
分かっちゃいても、そんなやすやすと出来る訳ではないから、日々精進。
バラガンと比べても仕方が無いが、なにかひとつぐらいは近づきたいものだ。
直に触れてみないといけない。とやっぱり思う。

建築家は大変:マイ・アーキテクト

建築家さんは大変である。
斎藤先生の講演会の後、先日はジャン・ヌーベルというフランスの建築家の講演会を聞きに行った。
フランスの、日本で言う安藤さんみたいな建築家さんです。
あんな仕事ができて、チョ〜きもちイイ〜だろうな〜って言うのが素直な感想。
世界中を股に掛け、という言葉がそのまま似合う仕事っぷり。
その昔ブルータスに紹介されていた記事を思い返せば、
(建築家だから?)朝は遅めでプールでひと泳ぎして、ブランチを取りながらミーティングを始める。
なんてウラヤマシ〜。
自分の事務所に本人のデスクはないらしい。
と言うか、あっても使う暇がないから必要なさそうですが。。。

今日は今日で、マイ・アーキテクトと言う映画を見て来ました。
ルイス・カーンというアメリカの建築家さんのお話。
すでに30年前に亡くなった故人だが、20世紀を代表する建築家の一人。
建築家は3人の女性を愛したが、建築に没頭する芸術家の家庭が普通の幸せを築いたとは言いがたい。
映画監督である2人目の愛人の息子が小さい頃にしか持てなかった父の面影を探しに、
また自分の存在を確かめに、父親の作った世界中の建築を巡る。
その先々で父親を愛する大勢の人々に出会い、尊敬と戸惑いが交錯する。
職業としてでなく、生き方として建築を選んでいる。と言ったのは斎藤先生だったか。
やっぱり建築家さんは大変である。

丹下健三

新聞でも報道されていましたが、建築家丹下健三氏が亡くなられました。
91才だそうです。
以前であれば誰もが知る日本の建築家と言えば、丹下さんだったでしょう。
自分の親父の世代だと間違いなくそう言うと思います。
日本の建築の歴史に、ひとつの時代の区切りがついたに違いありません。
今一度、丹下さんの軌跡を辿っておかないと、
と思うのは決して僕だけでは無いはずです。

丹下健三・都市・建築設計研究所

関西での建築家の家の危機?

今日はとある建築家マッチング会社主催の建築家の懇親会に参加しました。
なので、少々ほろ酔い気分です。。。
とあるその会社は関西での営業を撤退すると表明したところでした。
その理由としては、関西での建築家の家に展望が見えないというのです。
関東のそれに比べて、伸び率が見えないと言うのです。
ただ正直に、その懸念に対する自分の意見がまだ持てません。
確かに関西での建築家の存続は楽では無いような気がします。
とは言え、周辺の建築家の意見を聞いても、微量ながらも物件数は増えている様にも見えます。
であったとしても、全体としては関西での伸びはとても右肩上がりと言えないのかも知れません。
それにはきっと理由があるのでしょう。
しかし、その理由は何なのでしょうか。
関西の建築家の多くは地位の向上を如何にすれば良いか悩んでいるように思います。
もちろん自分自身も例外ではありません。
建築家の家とは何なのでしょう。ご意見あれば賜りたい気分です。

ブログ2日目というのに明るい話題でなくて、すみません。