セミナー「墨壺のかたち」

「墨壺のかたち」
「墨壺のかたち」

墨壺〜スミツボ〜と言えば、大工さんが材木に線を引くための道具ですが、墨の入ったもっこり太っちょおたまの様な独特な形に、柄の所には糸車のついたもの。中には、精巧な彫り物が施されて黒々とした鈍い光沢の質感を主張しながら、倒かさないように注意を払われ大工さんの手元に鎮座している。そんな様子をどことなく想像します。
ところが実際、現場で黒い墨壺が置かれた様子を見たのはいつ頃までだったろうか?
今頃見る墨壺は形に名残こそあるが、赤や青色のプラスチック製ケースになったコンパクトなもの。さらにはホルダー付きになって腰のベルトにぶら下げている。

そんな「墨壺のかたち」の変遷について、竹中大工道具館のセミナーを拝聴してきました。

「墨壺のかたち」
「墨壺のかたち」

まず最初に、前文の間違い。墨壺に添えられる墨糸を使う時、墨を「打つ」と言います。墨を含ませた糸をピンと張り、糸の行方と長い材木を睨みながらパシッと墨を打つと、スッとした線が材木の表面に転写されます。なにやら神聖な儀式にも見える大工さんの基本作業です。
こうした基本作業自体は記録に残されるずっと前からもちろんあり、当初は糸でなく「墨縄」であったようです。細かな大工仕事に使われ始める前に、製材の際に丸太を角材に加工する工程に使われはじめたのが道具としてのスタートのよう。今の様な形の墨壺として、遺跡の出土品や記録に残るようになるのは7~8世紀ごろから。発祥はおそらく中国と思われますが、全く記録が無いそうで定かでありません。

世界各国それぞれに墨壺はあるのですが、セミナーでの話の様子では、中国を中心としたアジア圏の方がヨーロッパ圏やアメリカ圏よりも道具としての発展は進んだようです。欧米やアジア奥地などでは墨壺と糸巻が別々の分離型が多く、墨壺と糸巻がひとつになった一体型の分布状況を調べると大工技術の流れも見えてくるようです。
話が古く遡りますが、ピラミッドにも墨出しの跡が見られるそう。このころは、縄とオーカー(酸化鉄に粘土を混ぜた着色剤)が用いられていました。中国ではベンガラ(レッドオーカー)が着色剤として使われ始めました。ヨーロッパでは、チョーク。

そんな世界の墨壺の中でも、日本は独特の発展があったようです。装飾を施された墨壺や洗練された形の墨壺が他の地域で無いわけではありませんが、こだわりの墨壺は他に類を見ない発展がありました。墨壺を専門に作る職人が発生したのは、意外と新しい時代。明治中頃に東京からスタートしたようです(東京墨壺職)。その墨壺職人が新潟三条に移り住んだ明治後期から、雪に埋もれる冬季の屋内作業として新潟の一大産業に発展(三条墨壺職)。
壺豊、成孝、一文字正兼と言った名人と呼ばれる人も現れます。各名人の作風は、精緻な彫刻であったり、端正な姿であったり、それぞれの特徴がありました。ついには実用を超えた巨大墨壺まで作られました。また東京・新潟以外の地域でのそれぞれの発展や、左官業や造船業など職種に合わせたバリエーションも生まれました。コレクターも現れます。
戦後復興の木造建築の大量生産に伴って大きく発展をした墨壺産業でしたが、昭和40年代から、プラスチック製品(特にポリエチレン製)の登場により一気に衰退へと転じます。そして、現代に至っては、腰にもぶら下げられるコンパクト且つ高機能な工業製品へと発展しました。

セミナー会場には高齢の大工さんらしい受講者も多く見られますが、おそらくオマケ映像で流された現在売られている墨壺製品の紹介ビデオに、一番会場が湧いたことが何より印象的でした。コレクションとしてはともかく、道具と見れば利便性が追求された進化に違いありません。
一方発展の時代、道具としては高度な技術が要求されませんが、大工仕事の基本にもなる墨付けの道具に凝ってしまうのは、華やかしき時代では大工さんの粋の現れのひとつであったに違いなく、大工仕事に対する誇りの現れだったのでは?とも思えるのです。

会場に用意された幾つかの墨壺は格好良く、個人的にもコレクションしたくなります。粋な墨壺を抱えながら現場に入る大工さんの姿を見ることはもう恐らく無いのだと思うと、少しばかり寂しい気もしました。

 

セミナー「奥会津地方の建築儀礼と番匠巻物」

祈りのかたち – 知られざる建築儀式の世界 –(竹中大工道具館企画展2017.4.15~5.28)

近頃は、建築儀礼(地鎮祭や上棟式)が執り行われる様子に出くわすことが少なくなりました。まったく無い訳ではありませんが、自分が関わる物件でも必ず行われるものでなくなってしまったことはやはり寂しい気がします。

今日は久しぶりに「技と心セミナー」へ行きました。お茶の水女子大学教授・宮内貴久先生による「奥会津地方の建築儀礼と番匠巻物」。全国でも珍しい伝承的に行われる福島県奥会津地方での上棟式の様子と、そこにまつわる大工(この地方では「番匠」と呼ばれる)の師弟間に伝わる巻物伝授のお話でした。

この地方では、大工修行が終わり一人前にになると親方から弟子へ巻物が伝授されるのだそうです。巻物は一人前になった証のようなもので、例えが悪いですが、もし親方が事故でなくなり巻物伝授が受けられないとなると弟子たちは大騒ぎになるのだとか。是が非でも手に入れないと、自分たちの価値を失うかもしれない。そんな勢いのようです。
では、その大事な巻物に一体何が書かれているのか? 簡単に言ってしまうと大工の心得や技術書のようです。その中には儀礼のマニュアルもあります。なるほど大工さんにとってはバイブルなのかと思いきや、実はほとんど読まれることはなく、むしろ普段何もない時に決して開いてはならないものだとか。まるで呪物のような扱いで、不思議な伝承です。
また巻物が唯一使われる儀礼は上棟式だそうですが、ここでもようやく巻物を開きはするものの一文一句詠む訳でもないのだとか。。。ますます不思議。それでも普段、巻物は袱紗に包まれ桐箱に入れられ神棚に祀られているそう。上棟式となれば、どんなに現場が離れていようと棟梁自らが巻物を取りに帰るのだそうです。

宮内先生は、そうした巻物を大工さんのお宅へ一軒一軒廻り見せていただき、そのルーツを解き明かそうとされています。また他の地方に同じような伝承はないのか史料調査されています。

祈りのかたち – 知られざる建築儀式の世界 –(竹中大工道具館企画展2017.4.15~5.28)

そんな巻物の話の最後、驚きになったのは「まじないうた」のお話。
いくつかある歌の中でも、安寧な生活がいつまでも続くことを望む歌として「君が代」が普段から口ずさまれていた?そうです。スライドに映る巻物の写真にきっちり歌詞が書かれているのが読み取れます。「君が代」は平安時代の和歌。お祝いの歌、建物に思い馳せる歌として謳い継がれてきたという事は思いもよりませんでした。

講演の始めにありましたが、建築とは野生の空間に人が住めるように秩序立てること。家を建てるという事は子孫繁栄の基礎となること。そこに儀礼が生まれてきたのだそうです。なので、地鎮祭の後に板囲をし夫婦がそこで一夜を過ごし、自分たちの住む土地を獣に汚されないように守るということもされていたそうです。

施主さんの思いが宿る。そんな地鎮祭や上棟式をずっと続けて欲しいものです。

 


祈りのかたち – 知られざる建築儀式の世界 –(竹中大工道具館企画展2017.4.15~5.28)

対談「日本の伝統建築の 真|行|草 」

大工館への道すがら

昨日、竹中大工道具館の講演会に行ってきまた。「日本の伝統建築の 真|行|草」数奇屋建築の研究と設計で有名な中村昌生先生と数奇屋建築の施工で有名な中村外二工務店・棟梁の升田志郎氏の対談です。
いつもと違って沢山の方が来られるだろうなと思いつつ、会場に15分前に着きましたが時遅し。すでに溢れんばかりの人だかりで、三時間の講演をずっと立ち見で拝見するはめになってしまいました。

普段、数奇屋建築を見学に行っても、なんとまあ手間の掛かった仕事だろうか。一体いかほどの時間が掛かるのだろうか。はては、こりゃ〜いくらあっても出来んとまで考え及ぶのですが、実物を目の前に大胆かつ細部に至り精緻な仕舞を見ても、その仕事の実際や過程、大工を始めとする職人さんの知恵や技術を自分の中に置き換えるには想像しがたいものがあります。「日本の建築は?」と聞かれたら、多くの人は数奇屋もイメージすると思うのですが、同じ建築の中にあっても自分が普段関わる仕事とは大きくかけ離れた次元のものに見えてしまいます。できあがった建物だけでなく、そのできるまでの過程を含めて、全てが創作の世界にあるよう思えるのです。
そんな創作の世界の一端をお二人の対談の中から、少し身近になったように感じるのは甚だ勘違いかもしれませんが、お許しください。

日本の伝統建築の 真|行|草

和建築や数奇屋の世界は建築に関わる人なら多かれ少なかれ気になるものです。これまで竹中大工館のセミナーに幾度も来て、初めて建築関連の友人数人に会いました。また、200人定員だったところ300人になっているのでは?と思える盛況ぶりです。それだけ関心の高さに圧倒されます。踏み入れることのなかった世界に、思い憧れる人も多いのでしょう。僕自身もその一人です。
20年振りでないかと思う会場で再会した友人の一人は、四十を過ぎて踏み入れ始めたと少し話をしてくれました。儲からんけど楽しいよと笑いながら話をしていましたが、なかなかできることでない気がします。陰ながら応援したいと思います。

たゆまなく流れる何かを感じる。 そんな講演会でした。

見学会「三木の鍛治場を巡る」

刻印(常三郎)

先日、竹中大工道具館主催の見学会「三木の鍛冶場を巡る」に参加してきました。限定20名とあって、まず無理だろうと思ってスッカリ忘れていたところ、なんと当選。意気揚々と貴重な社会見学に行ってきたところです。
訪問先は三件。鉋(かんな)常三郎、鋸(のこ)カネジュン、鑿(のみ)錦清水。基本の大工道具・三品の刃物の製作風景を見学させていただきました。

まず、鉋(かんな)常三郎。
こちらでは、大きな工場で製造をされています。土曜日だったこともあって職人さんはお休み、残念ながら製作風景を直に見る事は出来ませんでしたが、社長の魚住昭男さんと入社7年目の若い職人さんに、時折実演を交えながら工場内を丁寧に案内して頂きました。いちいち機械が格好良いのですが、技術だけでなく材料研究の熱心さも品質を支えている様子が社長さんの話から聞き取れます。道具の事は素人ですが、ひとつ「鉄」と言ってもイロイロあるわけです。刃物に向く良質な鉄は少なくなっているのだとか、向かないと思われた新しい鉄鋼材料をどうすれば使えるようにできるのだとか。。。
実はこの後もそうですが、マニア過ぎて実は全然ついて行けてません。(泣)

次に、鋸(のこ)カネジュン。
日本で最初の工業団地と言う三木金属工業センターの一角に、カネジュンさんはあります。伝統工芸士(ほぼ同年の若い方です)であり社長の光川順太郎さんに駆け足で実演を見せて頂きました。使いやすいノコギリ、切れ味の良いノコギリとは?よくよく見てみれば、鋸は他の大工道具に比べると非常に複雑な形をしています。素人目にはギザギザな薄板なだけですが、まず驚いたのは、単に薄っぺらい板ではなかったことです。引きのよい感触にするには実は中程に薄くなっているのだそう。これだけではありませんが、そうする事で切るにつれ木に挟まれていく刃が動き良いようにしてあります。また、ギザギザの刃は右左に振れている事は知っている方も多いと思いますが、実は出来るだけ振れないようにした方が鋭利な切れ味になって行くことです。考えてみればナルホドですが、実は単純な話ではありません。コンマ零点何ミリが使い勝手を左右する世界なのでした。
鋸は複雑な工程の為に、道具製造のなかでは機械化が早く進んでいるのだそうですが、日本全国にある鋸生産工程の機械の原点は実は此処にあるのです。

最後に、鑿(のみ)錦清水。
先の二つの訪問先とは打って変わって、まさしく鍛冶工房です。主の錦清水(にしききよみ)さんは、御歳70半ば過ぎ。奥さんと二人三脚で工房を支えられている夫婦鍛冶としても知られているそうです。釜に風を送るふいご・鉄を叩くハンマーや刃物を研ぐサンダーはさすがに機械ですが、格子の窓から冬風も入ってくる土壁の工房を含めて想像する昔ながらの鍛冶屋さんそのままのイメージです。
こちらでも、奥さんと息のあった様子で鑿の刃を作るひと通りの工程を拝見しました。それなりに機械化の進む道具生産の現場で、今なお昔ながらの技法や工法にこだわる強い眼差しがありました。
全国各地の大工さんが、錦さんの鑿を求めてこの工房へ脚を運びます。すぐ側の住居の一室は入れ替わり来る大工さんの為に、製作された鑿が片付ける暇も無く無造作に散らかっていたのが、また格好良いのです。

人の手にせよ機械にせよ、頼る姿勢なく一筋に良い道具を目指す姿勢は、どの方も同じです。カネジュンの光川さんの言葉が印象的でした。「自分の手で出来ることを機械にさせているだけ、自分の手で出来ない者は機械を使っても出来ない」
機械頼りの僕には、まるで戒めのようなお言葉です。この日に参加された方の中には、遠くから来られた熱心な大工さんもいらっしゃいました。良い仕事は、良い腕と良い道具があってこそ、身が引き締まる思いがします。

鉋(かんな)・常三郎

鋸(のこ)・カネジュン

鑿(のみ)・錦清水

セミナー「江戸時代の木造建築リサイクル」

土曜日の午後、竹中大工道具館の「技と心セミナー」に行ってきました。講師は研究員の方で「江戸時代の木造建築リサイクル」というテーマでした。
以前に、尺貫法でシステマティックに構成された日本の家屋は、建具や畳をはじめとしていろんな部材が再利用出来ると言う話を伺ったことがあります。今回は、そうしたリサイクル事情の背景を少し伺い知る事ができたと思います。

日本の昔の衣食住のスタイルは、素材を生かし、資源を大切に使う、共通した考えがあります。例えば着物にしても、羽織が古くなれば前掛けや袋物にし、さらに古くなれば雑巾にする。そうした感じで、モッタイナイを上手に活用しています。きっと誰でも当たり前のように思っているでしょう。さらに、侘び寂びを代表とする古いものも新しくしてしまう斬新な美意識など、アンティーク趣味では無い独特の美意識を日本人は持ち得ています。物事を時空を超えて包み込むような思想が根底にあるのでしょうか。

講座の中で特に興味を惹かれた部分は、ある村での工事記録では居宅が村に82件あり、10年間での新築は1件しかなく、それ以外は修繕や増築で対応しているという話。解体された空き家の部材を土台や鴨居、下地の野材まで村の人たちが、買い付けにきていたと言う帳簿の話。大きなお屋敷では周期的に屋根の修繕が行われ、日常的に大工さんの出入りがあった記録の話。さらに、家一軒の部材を家の奥に貯蔵しているのは珍しくないと言う話。など、当時の生活を伺い知るようなところです。
養父が亡くなり幼い子供では管理できなくなった家屋を一端解体、整理保管し、何年か後に子供が成人したところでまた建て直すと言った話もあるようです。一般の家屋に限らず、お城から寺社仏閣にいたるまで、リサイクルの精神は行き渡っていた様子です。

当時の木材は伐採、製材、加工までの工程は今とは比べられないほどに手間が掛かり、端材であれ貴重だった訳です。だからこそ、材料を長い年月に耐えるようにする加工の技術は高度に成長し、伴い大工道具の発展も凄まじかったのでしょう。ひとつひとつに手間を掛けていたのは、決して一部の話では無かったに違いありません。

話は現代にもどり、ホームセンターに解体した家の部材があったら買う人がどのくらいいるでしょう?釘をきれいに抜いて陳列台にきっちり並べても、材料が新品のものよりずっと良いとしても、梁の穴が残ったりする材料を気持ち悪いなどと素通りし、思ったほどに買う人はいない。そんな気がします。なのに、古材と名打っただけで実はそれほどでもないものを高く買う人もいるでしょう。
江戸時代のリサイクル精神を今に再現するのは、なかなか難しい気がします。
私事では、現場の端材できれいに残ったものがあると、監督さんや大工さんに断り持ち帰る事があります。日曜大工を趣味にしているとは言えませんが、棚板やらなにやら結構使わせてもらっています。反面、使わずままの端材も結構転がっています。

そんな端材を眺めながら、モッタイナイ建築が考えられないものか。それを考える時間がモッタイナイ、なんて思い始めたらますます遠くなるのです。

セミナー「庖丁の守りと研ぎ方」

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昨日は恒例の竹中大工道具館のセミナーへ。「庖丁の守りと研ぎ方」というタイトルで、まさしく包丁のお手入れと研ぎ方を教わった。講師の庖丁コーディネーター・廣瀬康二さんは、大学でも講義をされたりメディアでも紹介される「庖丁を通して食の愉しさを伝える」庖丁調整士さんだそうです。「守り」は「もり」と呼ぶそうで、「庖丁」という字も実は初めて知りました。

お寿司屋さんや料理屋さんのカウンター越し、レストランのオープンキッチンでも、庖丁さばきの良い板前さんやコックさんの姿を見ると、目の前にまだ無くても今にも美味しそうな料理が並びそうな気がしてきます。無理無駄が無く、信念をも感じさせる人の動きというのは見ていて気持ちの良いものですが、廣瀬さんが庖丁を研ぐ仕草もまさしくそんな感じです。セミナーに来てうまい飯を食わせてもらえるような気さえしてきました。

内容はごく身近な庖丁の手入れですが、砥石の使い方など結構知らないことが多いことが分かりました。まず目の粗さで、荒砥石、中砥石、仕上砥石とあることさえ、考えれば当たり前ですがあまり意識していませんでした。ヨメさんに任せっぱなしってことがよ〜く分かります。

  1. 研いでいる時に出てくる泥(砥石の粉が混じった水)を洗い流さないようにする。これは、一般的な中砥石で研ぐ時の基本。
  2. 庖丁のサイズにもよりますが、先から手元までを三等分に考え、全体にまんべんなく研ぐ。
  3. 鋼の庖丁は15度。ステンレスなら30度。砥石との角度の目安。
  4. 添える手に力を入れず、肘で動かすように1箇所10回ぐらいずつ。
  5. 研いだ刃の裏面にカエリ(刃先のまくれ)があれば、基本的に終わり。
  6. 仕上げは泥を洗い流しながら、軽く5回ぐらい。(ステンレス刃は刃先が弱いので仕上げはしない。)

ごく一部ですが素人的に出来るお話から、庖丁それぞれには役割をもった形があるので整えてあげる。蕎麦切り庖丁は店の方も手を出さないほうが良い。と、玄人的なお話まで非常に分かりやすく話をされる様子もどことなく板前さんっぽいです。

実演では予め庖丁をお預けされていた参加者の庖丁を診て、この鋼の庖丁は以前に火にかけられたことがありませんか?焼きが戻っていますよ。この庖丁だと例えばネギを切ると、切れきらずに繋がってしまうでしょう。まず庖丁の診断。
鋼の庖丁は火に掛けてはいけないのだそうです。(暖めたいときはお湯につけるまで。)ついつい研ぎやすいところばかり丁寧に研ぎすぎて、庖丁本来の形が変わってしまっている。など、思い起こせばやってしまったことありますよね。

工事現場だと大工さんがお昼休みや合間に鑿の刃を研いる様子が思い起こせます。なにはともあれ、道具を大事にしなければ素材も大事に出来ないのですね。
身の回りに道具がたくさんありますが、ぞんざいな扱いばかりしている身には、愉しくもとても耳の痛いお話でした。

食道具「 竹上」庖丁コーディネータ 廣瀬康二

勉強会「ブラックウォールナットの製材」

IMG_1379先週土曜日に、午前中は岸和田の服部商店さんで催された製材の勉強会、午後は神戸・竹中大工道具館で催された「技と心のセミナー」に慌ただしく行ってきました。少し長いです。。。

第12回・服部商店商店勉強会「ブラックウォールナットの製材」

主に広葉樹木材を扱う岸和田の服部商店商店さんには、幾度かお世話になっています。木材の話を始めるとなかなか止まらない服部さんですが、この勉強会にはしばらく参加する機会が無く、しばらく振りに伺った感じです。これまで丸太からの製材は何度か見る機会がありましたが、今回の製材の様子はどことなく今までよりも「製材ってこういうことなのかな・・・」と少しだけ分かるような気がしました。おそらく気だけですが。

使われたブラックウォールナットの丸太は、周りに置かれていたものよりもやや小ぶりなぐらい。大きい丸太なら迫力もあったでしょうがそれよりも、まず二つに割られた丸太の断面の白太と赤身のコントラストが鮮やかで、これは磨く?とめっちゃ奇麗になるんじゃなかろうか、と思えたのです。2枚、3枚と縦割りの大きな板材が採られ、さらに寝かして小幅の板材を製材されます。スタッフの方が慌ただしくローラーに流される採りたての板の埃を払い、積み重ね、また切り出される板を受け取りに走る。服部さんは製材機の側で、切り出しの向きや厚みを自ら指示しています。およそ20〜30分の間でしょうか。

後の説明で、この20〜30分の間に木と会話をしているのだと言われます。素人目には何気なく流しているようにさえ思えそう。丸太の中に潜む節や割れを切り出される様子を見ながら判断し、考えながら大きな板ものを採り進めるか、小幅にしてしまうかを判断するのだと言います。
よくよく考えてみれば、服部商店さんの扱う商品は材木のなかではどちらか言えば高級品です。高い丸太をはるばる買い付けて、如何に商品価値を上げるか(利益を上げるか)は、この短い時間の判断になるわけです。幅広の板材が奇麗に採れれば、利も上がるわけですが、その表面に価値を下げる節がでたり割れが出たりすれば一気に台無し。場合によればわずか何ミリかの判断で値段が大幅に変わることもあると考えれば、簡単に「これで切っといて」とは言えなくなる訳です。恐ろしや。もちろん悔やんだり、間違ったと思われることもあると言われます。
そんな服部商店さんでの勉強会でした。

製材機で切り出しの様子です。>http://youtu.be/iIU4ItyNkhg

 

セミナー 鉋鍛冶「神田規久夫」

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「鉋-かんな-鍛冶「も作」銘・神田規久夫の記録

午前中に服部商店さんの工場を離れ、竹中大工道具館「心と技のセミナー」に向かいました。鉋鍛冶の石社修一氏の講演で「現代鍛冶技法の保存調査報告その1「鉋鍛冶「も作」銘・神田規久夫の記録」というタイトルです。それは、東京足立区の住宅地の中で、昭和8年生れの鉋鍛冶・神田規久夫さんが今も現役で仕事をされており、その仕事ぶりを同業の鉋鍛冶・石社さんがビデオにおさめた記録の公開と講演になります。
江戸大工からの背景もあり、もともと東京も大工道具(ノミ、カンナなど)の製造も盛んだったそうです。ですが今は、大都会に変貌する流れの中でそうした産業は土地の確保ができる地方に移り、個人で続けれるている方はほんのひと握り残っているだけ。道路から半間通路の奥、まさしく密集地のなかで昔ながらにトンテンカンとされる鍛冶屋さんがあるのです。生産を重視するメーカーだと、工作機械の設置や材料の入手や保管を考えるだけで、とても東京の街中では出来なくなる事は想像に難しくありません。
その対極、昔ながらの手仕事にこだわった数少ない職人さんの工房は、石社さんの言葉を借りればガラパゴス的に残ることが出来たと言う事です。神田さんは、ただひたすらに鉋の刃だけを作っておられるわけです。見せて頂いた映像も炉の火加減を見る為に特別な照明を当てる事もなく、実際に商品として作られる過程を2〜3週間掛けて撮影されたもの。作為的なプロモーションは全くなしなので、とてもリアルな感じがします。
おそらくは陽の目を見る事のなかった鍛冶職人の神田さんの刃は、たまたま鉋使いで有名な大工・阿保昭則さんの手に渡ることになり、見初めた阿保さんが神田さんを探し当てたところから、こうした記録になったようです。
メディアではこうした職人さんが取り上げられる事も少なくありません、ですが、神田さんのような職人さんは居なくなる事が必至かもしれません。話の始め、刀鍛冶は憧れもあって飛び込む若者もいるが、人目をひく事がない鉋鍛冶や鑿鍛冶は跡を継ぐ人がまず居ないと言われていました。先の大工・阿保さんは神田さんの鉋で3ミクロンという脅威的な鉋屑を削られます。鉋だけでなく、手仕事を支えるこうした本物の道具と技は、技術技術と声高にしていてももうすぐ無くなるのかもしれません。

より良い材を揃える服部さん、材を生かすために道具をつくる神田さん、機械化ではまねの出来ない何かがそれぞれにあり、それらが建設、建築の仕事、技術、思想を高めるひとつの要素になっている事に違いありません。でもいつか、それらは忘れ去られそうな何かになっている。ひとつでも多く、そうした何かを残せる仕事に関われたらと日ごとに思います。

セミナー「お茶室の壁の作り方」

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ラス下地・・・本文の内容とは違いますが。。。

 

今日のお昼、竹中大工道具館の「技と心」セミナーに行ってきました。
「お茶室の壁の作り方」と題された学芸員の方の講座なので、歴史や様式的な話が中心だろうと勝手に思いながらいたのですが、話が始まってみるとむしろ仕様や技巧のずいぶん実践的かつ専門的な話を聞く事が出来ました。先の数寄屋展で協力もされている京都の左官屋さんから聞かれた話を元に学芸員さんが解釈を交え、土壁(特に茶室の壁)の技術・技法や、左官と言う仕事の奥深さの一端を垣間見る事が出来たように思います。

左官と言えばすぐに思い出すのは鏝(コテ)ですが、その種類は1000を越すとも言われているそうです。曲がりの角や壁の出角に平たいコテでなく、折り曲がったコテや現場に合わせた半円のコテを用意されるくらいの事は知っていましたが、一般的に平にだけ思っていたコテには、ゆるりと膨らんだり凹んだりしているコテがある事は認識していませんでした。下塗り、中塗り、上塗りと言った工程またその工程内でもコテは使い分けれられているのです。接する面の違いでべた〜と塗るためのコテ、繊細に面の凹凸を感じ取りながら細筆を引くように使うコテ。そうです、コテは絵筆と全く変わらない。

話は変わりますが、現存する茶室は数多くあります。僕でも多少は見学に行きます。その折、薄汚れたというべきか味があると言うべきかは別として、古びた壁を見ながらう〜んイイものを観た。とたびたび感慨に浸っていたのですが、建設当初の土壁と言うのは実はほぼ全くないのだそうです。土壁の持ちというのは、つなぎの糊が入ったもので6〜20年、入っていないもので50年ほどとの話。しかも間が開くものだから師弟間での技術の伝承が難しく、復元はその都度改めて考えながらされているのがほとんどだとか。まあ永久って事はないだろうとは思っていましたが、感動してきた壁のほとんどがリメイク?だったとはつゆ知らず。ちょっとしたショックです。

そんな話を皮切りに、一般的な土壁と茶室壁の下地の違い、材料の気の使い方、土の種類などなど、ひと言で書くのはなかなか難しいお話をたくさん聞く事ができました。中でも面白かったのは、節がある柱への墨付けは墨壷に糸よりもテープが便利だとか。土を寝かせても思われていたほど強度が上がる訳ではないのだとか(施工性は格段に上がります)。

茶室と言う意匠(美)の探求こそが、左官に限らず職人の技術や材料や道具の発展を牽引してきたのだな〜。いちいち妥協していては、そうした事はなし得ないのでしょうね。建築道はまだまだ遠く果てしないです。